田安徳川氏領の成立事情

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 ここではまず延享年間の領知の変遷について述べよう。
 八代将軍吉宗は家康の御三家(尾張・紀州・水戸の三徳川氏)取立てにならない、二男宗武(むねたけ)・四男宗尹(むねただ)をもって田安・一橋両家を創設した。この両家に、九代将軍家重(吉宗の長男)の二男である重好にはじまる清水家を加えて、御三卿といわれた。
 宗武は享保十六年(一七三一)正月二十七日江戸城田安門内に邸をもらい田安徳川氏を興したが、延享三年九月十五日に摂津・和泉・播磨・甲斐・武蔵・下総の六ヵ国のうちにおいて御賄料(おまかないりょう)として一〇万石の封地を与えられた。表59のとおりである。このとき市域では安倉村の一部が同氏領となつた。以来一〇万石の所領に変更はなく、そのまま明治に至った(田安徳川氏と同時に封地を与えられた一橋徳川氏については五三ニページ参照)。
 ところで田安家に与えられた一〇万石は御賄料であって大名の領地とは区別されるものである。すなわち御三家のように、分家独立して親藩、一門大名にとりたてられたわけではなく、江戸城中に住んで将軍の家族としての扱いをうけるものであったのである。公卿に列せられ中納言に進み、将軍の後継者がないときには、そこからでて宗家を継ぐ家筋となった。
 このような大名でない御三卿が成立したのは、吉宗の代、幕府の財政事情から一門大名を創出するだけの経済的余裕が将軍家になかったこともひとつの理由になっていようが、さらに世嗣家重(九代将軍)が凡庸であったため、跡継ぎのことを考えて宗武らを他家へ養子にだすことをさしひかえる配慮からでたものと考えられている。
 

表60 田安徳川氏略系図