延享四年(一七四七)七月二十一日川面村が篠山藩松平信岑(のぶみね)の所領となった。松平氏(与副系)はいわゆる形原松平氏で、家門の大名である。さきに康信の代慶安二年(一六四九)七月四日高槻藩三万六〇〇〇石から転じて篠山藩五万石となり、丹波国多紀・桑田両郡の所領のほか、摂津国島下郡に飛び地を与えられたが、延享四年信岑の代に至って、その島下郡の飛び地を公収せられ、替え地として武庫郡のうちに所領が与えられたわけである。このとき川面村のほか神尾村・上田新田(以上西宮市)が松平氏領となった。しかし信岑はその翌年寛延元年八月三日に篠山藩から丹波国亀山藩に転じた。このため川面村が松平氏領であったのはわずか一年であった。
そのあとへ篠山に入封したのは青山忠朝(ただとも)(忠俊系)である。松平氏の所領は青山氏に引き継がれ、川面村もひきつづき篠山藩青山氏領となった。青山氏はすでに宗俊の代寛文二年(一六六二)に市域を領有したことがある。すなわち大阪城代となったさい大阪周辺に所領を与えられ、平井村を領有しているのである。その領有は延宝六年(一六七八)彼が大阪城代を退くまでつづいた。このことについてはすでに前章で述べた(二八一~二ページ、表32・33参照)。
青山氏はその後遠江国浜松―丹波国亀山と転じたあと、忠朝の代寛延元年に篠山に入封したのであるが、そのとき川面村を松平氏から引き継いだわけである。忠朝は篠山藩主として大阪城代を勤めた。その後の忠裕(ただやす)・忠良(ただよし)も大阪城代を勤めており、その関係で青山氏は大阪周辺において武庫郡川面村以下三村の飛び地を領有しつづけ、明治に至ることとなる。
大阪城代領・大阪定番大名領の多い市域南部の地域にあって、川面村の篠山藩領有はさらに大阪城代領の一例を加えたものといえる。