山本村にいたっては、寛永十九年(一六四二)に平井村を分村したのちも枝郷丸橋・口谷を有する関係もあって、村高は一〇〇〇石、人口は近世後期に一一〇〇人を越える大村である。丸橋・口谷は小集落であり、かつ支配が本郷と同じであった関係で、村切りが最終的に進む近世初頭の時期に山本村から分村する機会をついに失ったわけである。しかし大村であるため、行政上あるいは村の生活上、もともと丸橋・口谷は本郷から独立した集落として扱われてきたと考えられるが、さらに寛延元年(一七四八)代官奥谷半四郎直救(なおひら)支配のときに、山本村の村高一〇〇〇石は山本分六一四石五升一合(六三町二反二畝二三歩)、丸橋・口谷分三八五石九斗四升九合(四三町一反九畝五歩)にはっきり高分けされて処理されることになっている。もちろんそれは一村内での措置で、村切りがおこなわれたわけではない。大村のゆえの特異ではあるがいわばとうぜんの措置であった。
資料が断片的で村人口の推移を知ることは容易でない。だが比較的人口の変遷がわかる川面村・安場村をみると、元禄期の経済的繁栄が人口の増加をきたし、享保以降の経済的繁栄の後退は、幕末に向かって人口の漸減する傾向を招いたと推察される。
表61 市域村々の人口・戸数
村名 | 年次 | 人口 | 戸数 | 村名 | 年次 | 人口 | 戸数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
人 | 軒 | 人 | 軒 | ||||
伊孑志 | 明治3(1870) | 270 | 54 | 安政7 | 594 | 139 | |
小林 | 天保9(1838) | 838 | 172 | 文久1(1861) | 587 | 139 | |
蔵人 | 天保9(1838) | 620 | 127 | 安場 | 宝暦10(1760) | 305 | 63 |
鹿塩 | 天保9(1838) | 199 | 40 | 安永9(1780) | 315 | ||
上佐曽利 | 元文5(1740) | 389 | 87 | 文政10(1827) | 271 禅宗のみ | 67 | |
宝暦7(1757) | 83 | 天保3(1832) | 266 〃 | 70 | |||
下佐曽利 | 寛政11(1799) | 213 | 52 | 嘉永4(1851) | 281 | 72 | |
文政2(1819) | 209 | 50 | 安政2(1855) | 277 | 70 | ||
天保14(1843) | 231 | 48 | 文久3(1863) | 267 | 65 | ||
大原野 | 文久3(1863) | 841 | 172 | 米谷 | 宝暦7(1757) | 保科領 | 60 |
慶応1(1865) | 821 | 167 | 明和4(1767) | 368 | 77 | ||
長谷 | 寛政11(1799) | 245 | 57 | 蕨野 66 | 13 | ||
波豆 | 天明8(1788) | 237 | 55 | 小浜 | 文政10(1827) | 845 | 192 |
天保9(1838) | 222 | 48 | 嘉永4(1851) | 800 | 202 | ||
川面 | 享保17(1732) | 829 | 安倉 | 文政10 | 655 | 128 | |
元文1(1736) | 806 | 159 | 嘉永4(1851) | 一橋領 559 | 120 | ||
寛保3(1743) | 746 | 164 | 安倉のうち鳥島 | 文政11 | 250 | 44 | |
延享1(1744) | 768 下人含む | 163 | 天保3(1832) | 252 | 45 | ||
2 | 747 | 163 | 9 | 204 | 43 | ||
寛延2(1749) | 739 | 163 | 11 | 228 | 45 | ||
3 | 776 僧を含む | 中山寺 | 文政10(1827) | 227 | 53 | ||
文化8(1811) | 嘉永4(1851) | 253 | 58 | ||||
文政5(1822) | 712 | 155 | 中筋 | 天保14(1843) | 601 | 127 | |
7 | 635 | 155 | 山本 | 宝暦11(1761) | 944 | 242 | |
8 | 630 | 153 | 丸橋 口谷とも | 文政10(1827) | 1120 | 243 | |
天保1(1830) | 648 | 155 | 嘉永4(1851) | 山本 582 | 148 | ||
3 | 660 | 155 | 丸橋 口谷 467 | 101 | |||
5 | 663 | 150 | 山本のうち口谷 | 明治3(1870) | 171 | 40 | |
7 | 640 | 156 | |||||
9 | 620 | 146 | 平井 | 文政7(1824) | 248 | 51 | |
10 | 618 | 147 | 小坂 48 | 7 | |||
14 | 636 僧を含む | 143 | 10 | 240 | 50 | ||
弘化2(1845) | 624 | 139 | 小坂 55 | 10 | |||
3(1846) | 626 | 138 | 嘉永4(1851) | 223 | 51 | ||
安政2(1855) | 612 | 141 | 小坂 44 | 11 | |||
3 | 610 | 140 | 慶応4(1868) | 218 | 50 | ||
5 | 607 | 139 | 小坂 66 | 14 |
表62 市域村々の村明細帳(1)~(5)
伊孑志村 | |
---|---|
明治3(1870) | |
<石高> | 249石978合 41町85畝29歩5 |
<石盛> | 上々田12 上田10 中田8 下田6 下々田4 上々畑10 上畑8 中畑6 下畑4 下々畑3 屋敷10 |
<戸口> | 270人 54軒(高持百姓52 無地借入1寺1) |
<山> | 58ヵ村立会長尾山 |
<水利> | 逆瀬川懸り(かつては4分通り武庫川懸り、6分通り逆瀬川懸り) |
小林村 | |
宝暦3(1753) | |
<石高> | 874石496合 112町76畝 |
<石盛> | 上々田13 上田12 中田10 下田8 下々田6 上々畑11 上畑9 中畑7 下畑5 下々畑3 屋吸11 |
<里程> | 新田中野陣屋へ26丁 大坂城5里10丁 |
<その他> | 酒株 150石 |
上佐曽利村 | |
元文5(1740) | |
<石高> | 320石713合 32町49畝21歩 |
<石盛> | 上田13 中田11 下田9 下々田7 上畑9 中畑7 下畑5 下々畑3 屋敷12 |
<津出し> | 牛にて小戸村へ、馬にて神崎まで |
<戸口> | 389人 87軒(高持75 無高12)医師1 大工3 木挽7 商人(みそ・醤油・小間物)1 猟師14 |
<余業> | 男 いかき造り 女 いかき手伝 |
<土質> | 1分真土、2分墨ぼく、3分砂まじり、4分野土 |
<里程> | 三田へ3里 篠山5里 尼崎8里 大坂10里 高槻9里 |
宝暦7(1757) | |
<津出し> | 牛にて加茂村へ、馬にて神崎川岸まで |
<戸口> | 83軒(地主77 水呑6)医師1 大工5 木挽3 小間物商1 猟師4 牛博労2 |
<山> | 百姓持林59町80畝、村中入会草山68町27畝10歩 |
<水利> | 田方 6分香合池懸り、4分天水場 |
<作付> | 田 稲作のみ8町17畝6歩、稲・麦作・綿作少々18町10畝、畑木綿作・雑事作 |
<播種> | 綿種2貫目 大麦4升 小麦6 大豆6 |
<肥料> | わら草 干鰯 |
<小作料> | 上田13斗 中田10 下田7 下々田5 上畑7 中畑5 下畑3 下々畑2 |
<質価> | 上田70匁 中田60 下田50 下々田40 上畑50 中畑40 下畑10 下々畑20 |
下佐曽利村 | |
延享1(1744) | |
<播種> | 毛籾10升 毛なし籾9 綿種田1貫目 畑1貫200目 大麦10升 小麦6 |
<肥料> | 稲作 干鰯粉42升(銀35匁) 綿作1番肥20 2番肥30 3番肥40 |
<労働力> | 稲作25人(賃銀37.5匁) 綿作50人(58匁)寛政11(1799) |
<石高> | 196石872合 20町16畝07歩 新圧13石743合 90畝22歩 |
<石盛> | 上田13 中田11 下田9 下々田7 上畑9 中畑7 下畑5 下々畑3 屋敷13,12 |
<戸口> | 213人 52軒(高持48 無高4)牛 25匹 木挽5 大工2 博労1 菜種商5 古手商2 医師1 |
<余業> | 男 縄ない 駄賃持 |
女 縄ない 布 | |
<山> | 百姓持林 18町40畝 村中入会山 |
<水利> | 溜池 |
<品種> | 大こく 京白 順礼ぼ亀山 関東 どろかぽ おの川 西国 ふり出し |
<播種> | 籾 上田8升 下田9 綿種1貫目 大麦10升 小麦7 そば5 大豆6 |
<肥料> | 田 山草 焼土 干鰯50~40匁 畑 焼土 干鰯20~15 |
<給銀> | 男 200~100匁 女80~60 |
<小作料> | 上田13斗~10 中田11~10下田 7~5 下々田3~2 上畑5~3 中畑4~3 下畑・屋敷3 下々畑1.5 |
<質価> | 上田70匁 中田60 下田50 下々田40 上畑25 中畑20 下畑15 下々畑10 屋敷20 |
<里程> | 三田へ3里 池田4 伊丹6 篠山6.5 神崎7.5 大坂10 京都13 |
天保14(1843) | |
<戸口> | 231人 48軒 牛22匹 |
<余業> | 男 木柴仕込み三田・池田市場へ売出し |
女 うミつむぎ | |
長谷村 | |
寛政11(1799) | |
<石高> | 314石295合 29町47畝7歩 |
<津出し> | 加茂村を経て神崎川岸まで |
<戸口> | 245人 57軒 牛25匹 大工2 木挽5 小物売商人1 |
<余業> | 男 池田・伊丹へ柴売り 女 薪こり |
<山> | 百姓持林 41町26畝20歩 村中入会山 76町 |
<水利> | 田方7分半 用水懸り(溜池) |
<品種> | 白川 河内わせ 但馬坊 松坂 大こく 大路坊 永代坊 まんはい 白福 福山 順礼坊 小野川 も白 |
<播種> | 籾 上・中・下田10升 下々田15 大麦10 小麦8~9 そば11~12 小角豆5~6 |
<肥料> | 田 山草・わらなど 畑 干鰯・油かす・山草など |
<給銀> | 男 200匁~100 女 150~100 |
<小作料> | 上田12斗~9 中田10~8 下田7~5 下々田4~3 上畑5~4 中畑 4~3 下畑3~2 下々畑2~1.5 屋敷6.5~6 |
<質価> | 上田50匁 中田40 下田30 上畑20 中 畑13 下畑8 屋敷13 |
<里程> | 三田へ3里 多田社3 篠山5.5 尼崎7 麻田6 亀山8 大坂9 京15.5 |
波豆村 | |
天明8(1788) | |
<石高> | 田 356石214合 32町46畝10歩 |
畑 60石386合 10町97畝20歩 | |
山 8石647合 | |
小物成高 2石903合 | |
新田 20石174合 | |
<戸口> | 237人 55軒 |
川面村 | |
享保19(1734) | |
<石高> | 613石696合 68町35畝9歩 |
<津出し> | 神崎浜まで 駄賃石2匁2 神崎問屋倉敷3合 舟積賃7厘 |
<戸口> | 下男24人 下女27 牛22匹 |
<土質> | 田 真砂 畑 はい土 |
<水利> | 武庫川 惣郷川 山谷出水 |
<農具> | くわ210挺 唐くわ60 犁鋒150丁 犁75 その他(唐竿・稲こき・箕 など) |
さき欠け修理代銀 くわ1.260匁 唐くわ150 犁鋒180 犁162.5 その他560 | |
<肥料> | 干鰯 稲作20匁~18 綿作37~20 |
<給銀> | 下男 85匁~70 下女 50~40 |
寛保3(1750) | |
<石高> | 613石696合 68町35畝9歩 御林64畝9歩 |
<戸口> | 746人 164軒 牛21匹 馬5匹 |
<余業> | 男 柴薪売り がち荷持ち |
女 木綿稼 | |
<作付> | 田 4分綿作 |
<小作料> | 田15斗~5 畑8~2 屋敷12~8 |
寛保4(1751) | |
<播種> | 毛籾9升 毛無籾8 綿種 田1貫目 畑1貫200目 大麦10升 小麦7 |
<肥料> | 稲作 干鰯20斗もしくは干粨40貫目 綿作 1番肥3斗 2番肥4 3番肥5 |
延享2(1745) | |
<戸口> | 747人 163軒 牛21匹 馬5 出家5 寺2 |
<作付> | 2分5厘 綿作高 |
<小作料> | 田 14斗~5 畑 8~2 |
安場村 | |
宝暦10(1760) | |
<石高> | 66石794合 |
<戸口> | 305人 63軒 |
<作付> | 田 9分稲作 1分綿作 |
畑 6分綿作 4分雑事作 | |
文政10(1827) | |
<石盛> | 上田12 中田10 下田8 下々田6 上畑9 中畑7 下畑5 下々畑3 屋敷9 |
<津出し> | 新田中野村陣屋まで(文致6まで) |
<戸口> | 271人 70軒 牛8匹 |
<余業> | 男 縄ない 女 木綿織 |
<山> | 58ヵ村立会長尾山 |
<水利> | 溜池 |
<その他> | 酒造株2(1360石) |
米谷村 | |
宝暦7(1757)一片桐氏領記載なし一 | |
<石高> | 640石534合 |
<戸口> | 保科氏領60軒(百姓41 無足5 借家15) 牛11匹 |
<肥料> | 稲作 40匁ほかに山肥 綿作 50匁下肥も 麦作 40匁わら土・下肥も |
<給銀> | 男 160匁~120 女 110~75 |
<里程> | 生瀬1里 伊丹1里10丁 池田1里半 尼崎3里 西宮2里10丁 有馬3里 大坂5 |
<その他> | 酒造株100石 |
明和4(1767)一保科氏領記載なし一 | |
<石高> | 440石534合(うち無地高22石996合4) |
<石盛> | 上田12.5 中田10.5 下田8 下々田5 上畑10 中畑8 下畑5 下々畑2 居屋敷10 |
<戸口> | 片桐領368人 77軒(百姓53 無足6 借居18)66人 13軒(蕨野) |
小浜村 | |
文政10(1827) | |
<石高> | 92石828合 |
<石盛> | 中田12 新下田10 上畑12 中畑10 新下畑8 屋敷13,12 |
<戸口> | 842人 3人番非人 192軒 牛6匹 |
<余業> | 駅所稼 男 縄ない 女 木綿 |
<山> | 58ヵ村立会長尾山 |
<その他> | 酒造株1(600石) |
安倉村 | |
文政10(1827) | |
<支配> | 一橋徳川家と田安徳川家の入組支配 |
<石高> | 1041石833合 |
<石盛> | 上田15 中田13 下田11 下々田8 新下々田6.5 上畑12 中畑10 下畑7 下々畑5 新下々畑6.5 屋敷12 |
<戸口> | 653人 2人番非人 128軒 牛39匹 |
<余業> | 男 縄ない 莚織 女 木綿織 |
<山> | 58ヵ村立会長尾山 |
<水利> | 溜池 |
中山寺村 | |
文政10(1827) | |
<石高> | 141石108合 |
<石盛> | 上田13 中田11 下田9 上畑10 中畑8 下畑6 下々畑4 屋敷11 |
<津出し> | 神崎浜まで |
<戸口> | 224人 3人番非人 53軒 牛4匹 |
<余業> | 男 縄ない 俵こしらえ |
女 木綿織 | |
<山> | 58ヵ村立会長尾山 3ヵ村立会長尾山口山 |
<水利> | 勅使川 足洗川 |
中筋村 | |
天保14(1843) | |
<石高> | 644石665合 56町66畝6歩 |
<石盛> | 上々田14 上田12 直田12 中田11 上々畑11 上畑9 中畑6 下畑4 山畑2 山2 |
<戸口> | 601人 127軒(高持120 無高7) 牛40匹 大工1 木挽1 水車4輛 |
<余業> | 男 縄俵莚打 |
女 糸つむぎ 木綿織 | |
<播種> | 籾5升~6 麦5~6 小豆5~6 |
<肥料> | 干鰯 にしん 油粕 干粕 |
<小作料> | 上々田14.5斗~14 上田14~13 直田13~12 中田13~12 上々畑6~5 上畑5~4 中畑4~3 下畑3~2 |
<質価> | 上々田130匁~120 上田120~110 直田110~100 中田100~90 上々畑60~50 上畑50~40 中田40~30 下畑30~20 山畑・山20~15 |
<里程> | 伊丹へ1里 麻田2 尼崎・神崎3 三田5 大坂5 高槻5 京・伏見10 |
山本村 | |
宝暦11(1761) | |
<石高> | 山本614石501合 63町22畝23歩 |
丸橋・口谷 | |
385石949合 43町19畝5歩 | |
<石盛> | 上田14 中田12 下田10 下々田9 上畑10 中畑8 下畑6 下々畑6 |
<戸口> | 942人 2人番非人 242軒 牛35匹 |
<山> | 58ヵ村立会長尾山 |
<土質> | 田 ねば土 畑 旱損場石まじり |
<里程> | 大坂へ5里30丁 京13里 江戸130 |
文政10(1827) | |
<津出し> | 神崎まで |
<戸口> | 1117人 3人番非人 243軒 牛47匹 |
<余業> | 男 植木作り 日雇稼 |
女 木綿織 | |
<水利> | 天神川 すみや川 水車1輛 |
平井村 | |
文政7(1824) | |
<石高> | 270石020合 26町52畝27歩 |
<津出し> | 神崎まで |
<戸口> | 247人 1人非人番 51軒 48人 7呼(小坂) |
<余業> | 男 山かせぎ 女 木綿 |
<播種> | 籾6.5升~5 大豆4 小豆4 |
<肥料> | 干粕 いわし 油粕 |
<質価> | 上田100匁~80 中田80~70 下田50~40 上畑50~40 中畑40 下畑30 |
<里程> | 池田へ30丁 伊丹50丁 麻田1.5里 尼崎3里 三田5 高槻5.5 |
文政10(1827) | |
<石盛> | 上田14 中田12 下田10 上畑10 中畑8 下畑6 新開6 |
<戸口> | 237人 3人番非人 50軒 55人 10軒(小坂) |
<余業> | 男 縄ない 女 木綿織 |
<山> | 58ヵ村立会長尾山 |
<水利> | 最明寺川 水車1輛 |
〔注〕1 品種の項は稲の品種である
2 播種・肥料・小作料・質価は1反についての数字である
3 給銀の項は奉公人の年額を示す
4 同じ村の明細帳を二つ以上掲げた場合は、同内容の項は重複を避けて省略した