村明細帳にみる商業的農業の発展

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 つぎに表62に市域村々の村明細帳の内容を略記してかかげる。近世後期の村明細帳も載(の)せているが、ここでは、近世中期の村の状況をみると、ことに農業に関する記述に注目すべき点がある。
 第一に、中期には商業的農業の展開がうかがわれる点である。これについてはあらためて述べるが、川面村寛保三年(一七四三)の村明細帳では田方の四〇%に綿作がおこなわれており、延享二年(一七四五)には田畑作付高の二五%(より確かなこの年の史料では二九・二五%)に綿作がおこなわれている。安場村でも宝暦十年(一七六〇)に田方の一〇%、畑方の六〇%に綿作がおこなわれており、その他宝暦七年の米谷村や延享元年の下佐曽利村でも肥料・労働力に関して綿作がおこなわれたことをうかがわせる記述がみられる。
 川面・安場・山本・平井村で農間余業として木綿(もめん)織がおこなわれている記述もある。それが自給的木綿生産なのか商品生産としての木綿織なのかは別として―おそらく後者であろう―、これまた綿作の展開を推測させる。さらに山本村で植木作りが余業としてでていることも注目されよう。
 つぎに肥料に関しては、山草に依存することが多い山間部の上佐曽利・下佐曽利村でも、中期には干鰯(ほしか)・干鰯粉の施与がみられるようになっていることが注目される。また上佐曽利元文五年(一七四〇)に猟師が一四人、木挽(こびき)が九人、宝暦七年に猟師が四人、木挽が三人いることが山あいの村の特色をみせているといえる。