畿内での綿作の展開はすでに一七世紀にはじまっている。天和(一六八一~八三)ごろに書かれた『百姓伝記』に「五畿内の内何(いず)れの里々にも木綿(きわた)を作り得たること余国に優(すぐ)れ」とあり、元禄十年(一六九七)に刊行された宮崎安貞の『農業全書』にも「百年以前其(その)たねを伝へ来りて今普(あまね)く広まれり、南北東西いづれの地にも宜しからずと云ふ事なし、其中に付て河内・和泉・摂津・播磨・備後、凡(およそ)土地肥饒(ひじょう)なる所、是(これ)をうへて甚(はなは)だ利潤あり」と述べている。一七世紀には他の地方ではまだ商品生産として綿作の本格的展開はなかった。その時期に畿内では商品生産として綿作が大いに展開していたのであるから、商品作物としてはなはだ有利なものとして、若干の自然条件の悪さをもしのいで、いよいよ盛大におもむいたと考えられる。
武庫川流域では、貞享三年(一六八六)に武庫郡上瓦林村(西宮市)で本田面積の二一・三%にあたる一一町三反二〇歩と、新田面積の五五・六%にあたる四町六反八畝二六歩以上(一部不明)に綿作がおこなわれていたことが知られている。上瓦林は土地が高燥でないため、享保十七年(一七三二)にはすでに本田の綿作は六・二%(三町二反九畝一四歩)に減じるが、市域南部の川面村では享保以降も上瓦林村より多くの綿作をおこなっている。このことからみて、市域南部では一七世紀以来少なくとも貞享三年の上瓦林村並みの綿作がおこなわれていたことが推測される。
市域南部の村々を含む武庫平野北部では、一八世紀には綿作は盛んであった。川面村の綿作状況を表63に示した。作付田畑の四〇%前後に綿作がおこなわれており、ことに畑では四、五〇%にのぼり、ときには五五%にも及んで盛んであった。
表63 川面村の作種別植付面積
年次 | 田畑 | 稲 | 綿 | そば | 雑穀 | 計 |
---|---|---|---|---|---|---|
元文5(1740) | 田畑 | 畝歩 % | 畝歩 % | 畝歩 % | 畝歩 % | 畝歩 |
1485.18(68.38) | 687.02(31.62) | 2172.20 | ||||
224.11(8.91) | 1185.06(47.04) | 816.07(32.40) | 293.20(11.66) | 2519.14 | ||
小計 | 1709.29(36.44) | 1872.08(39.90) | 816.07(17.40) | 293.20(6.26) | 4692.04 | |
寛保1(1741) | 田畑 | 1962.12(67.26) | 955.03(32.74) | 2917.15 | ||
328.18(12.19) | 1189.14(44.13) | 639.27(23.74) | 537.07(19.93) | 2695.06 | ||
小計 | 2291(40.82) | 2144.17(38.21) | 639.27(11.40) | 537.07(9.57) | 5612.21 | |
延享1(1744) | 田畑 | 2085.28(66.22) | 1063.29(33.78) | 畝歩 % | 3149.27 | |
75.21(2.94) | 1422.27(55.28) | 1075.08(41.78) | 2573.26 | |||
小計 | 2161.19(37.77) | 2486.26(43.45) | 1075.08(18.79) | 5723.23 | ||
延享2(1745) | 田畑 | 1666.20(62.08) | 1017.25(37.92) | 2684.15 | ||
176.04(6.71) | 724.06(27.58) | 1725.27(65.72) | 2626.07 | |||
小計 | 1842.24(34.70) | 1742.01(32.80) | 1725.27(32.50) | 5310.22 |
いま、さらに武庫平野北部の村々について作付率をしめすと、表64のとおりである。いずれも、川面村並みの高さをしめしている。上瓦林村もその地域に属するが、武庫平野の南部は一八世紀には綿作が衰えて典型的な菜種作地帯となる。これに対して砂地で高燥な武庫平野の北部は、一八世紀にもひきつづき一帯に綿作地帯として商業的農業を展開していたことがわかる。
表64 市域と付近村々の綿作
村名 | 年次 | 作付面積(検地帳面積) | 綿作面積 | 計 | 綿作率 | |
---|---|---|---|---|---|---|
田 | 畑 | |||||
畝歩 | 畝歩 | 畝歩 | 畝歩 | % | ||
川面 | 元文5(1740) | 4692.04 | 687.02 | 1185.06 | 1872.08 | 39.9 |
寛保1(1741) | 5612.21 | 955.03 | 1189.14 | 2144.17 | 38.21 | |
延享1(1744) | 5723.23 | 1063.29 | 1422.27 | 2486.26 | 43.45 | |
2 | 5310.22 | 1017.25 | 724.06 | 1742.01 | 32.8 | |
米谷 | 天保11(1840) | (2170.05) | 652.20 | 30.07 | ||
安政2(1855) | 石合 | 石合 | ||||
386.169 | 112.359 | 29.1 | ||||
畝歩 | 畝歩 | 畝歩 | 畝歩 | |||
享保19(1734) | 3276.04 | 1058.26 | 328.17 | 1387.13 | 42.35 | |
西昆陽 | 19 | 3831.29 | 1240 | 27.22 | 1267.22 | 33.08 |
山田 | 2 | 石合 | 石 | 石 | 石 | |
114.650 | 26余 | 30.4 | 56余 | 約49 | ||
出在家 | 宝暦7(1756) | 238.206 | 238.206 | 37.37 | ||
久代 | 7 | 36.360 | 110余 | 33.05 | ||
久代新円 | 享保19 | 畝歩 | 畝歩 | |||
2780 | 960 | 34.53 | ||||
中 | 寛保3(1743) | 畝歩 | 畝歩 | |||
2203.29 | 801.07 | 31 | 832.07 | 37.76 |
ちなみに川面村元文三年(一七三八)の裏作の状況を表65にしめしておく。麦作が主であり菜種作は自給以上の展開はみせていない(菜種作のその後の発展については五一三ページ参照)。
表65 元文3年川面村の裏作
作付作物 | 作付石高 | 作付面積 | 作付率 |
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石合 | 畝歩 | % | |
大麦 | 307.201 | 3591.19 | 59.33 |
小麦 | 108.530 | 1163.20 | 19.22 |
菜種 | 10.230 | 98.03 | 1.62 |
空大豆 | 8.300 | 77 | 1.27 |
苗代・居屋敷・雑殺 | 30.372 | 264.03 | 4.36 |
片作場(裏作休耕) | 78.400 | 859 | 14.19 |