綿作の展開とならんで一七世紀後半に展開した商品生産として山本の植木業があげられる。
天正(一五七三~九一)のころ山本に膳太夫というものがいて造園のことをよくしたとか、山本の何某が接木の術にすぐれていたので、豊臣秀吉が感心して木接太夫の称号を彼に与えたといった話が伝わっている。元禄十四年(一七〇一)の『摂陽群談』につぎのような記載がみえる。
(山本)同植木 同所ヨリ大坂天満ノ市店二荷出、当所ノ土俗 木ヲ撓接樹(タメツギキ)スルノ術ヲ得テ樹接太夫卜称スルノ家アリ、家ハ旧屋門ニ比ス
木継太夫旧屋 同郡山本村ニアリ、始祖何某諸木ヲ継ノ妙術ヲ得タリ、関白秀吉公大坂ニ召テ彼ニ木ヲ継シム、竹木一枝ニ交エ継トイヘドモ、枝葉栄ズト云事ナシ、秀吉公深ク感シ仰セテ本(木)継太夫 卜呼シム、至于今其名世俗ノ所知ナリ
山本善太夫第宅 同所ニアリ、庭作ルコトヲ善ス、尤第宅ノ造庭近郷ヨリ望之催慰興之処也
『摂津名所図会』などにしるすところも大同小異である。また桃山御殿の建設に山本村から数百人の庭師が出向いたとか、大阪城大手門外ノ松並木は山本からの寄贈であるとかの話も伝わっている。これらはいずれも所伝にすぎず史実とは確認できないが、山本の植木栽培はおそらく大阪の発達あるいは池田・伊丹などの在郷町の発達につれて、一七世紀後半から一八世紀にかけて盛んになったものとみてよいであろう。
山本村だけでなく、この村に隣接する加茂村(川西市)や猪名川の支流久安寺川の川筋である細河谷(細郷谷)の伏尾(ふしお)・吉田・古江・東山・中川原・木部(きのべ)(以上池田市)の村々で、やはり同じ時期に植木業の発達がみられた。『摂陽群談』は加茂村について「加茂村ニ造り市店ニ荷出(ニナイイデ)テ商レ之、凡テ此辺ノ山家樹ヲ植養(ウエソダツ)ル事ヲ宜(ヨロシク)ス」としるし、細河谷については「細郷谷樹(ホソゴウダニノウエキ) 同郡(豊島)木部・中河原・東山等ノ山里ニ造リ、大坂天満ノ植木屋ニ送ル、此処ノ人樹ヲ撓接スルノ術ヲ得タリ」としている。そして細河谷に関する所伝として、承応二年(一六五三)京都御所が炎上して紫宸殿(ししんでん)の前の桜と橘(たちばな)が焼けてしまった。そこで明暦元年(一六五五)細河谷の接木の巧者六蔵が召しだされて両木のつぎ木をおこなって成功した。それを賞して六蔵は橘兵衛の名を賜わったという話である。これまた所伝にすぎないが、山本から細河谷にかけての園芸が一七世紀に盛んとなり、大阪の植木商人との流通関係が生じていたものと察することができる。