小池を銀主とする尼崎銀札

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 さて中筋村の巨大な酒造家小池治右衛門について述べたついでに、同家の酒造以外のことにもふれておきたい。まず彼の持高は天和二年(一六八二)当時は三九石三斗八升一合(三町三反七畝一五歩、一部不明)であったが、元禄十七年(一七〇四)には六四石四斗七合(五町六反八畝二五歩)となっており、土地集積のうえでも発展していることがわかる。
 つぎに彼を銀主とする尼崎銀札が発行されたことについてもふれたい。尼崎藩は寛保三年(一七四三)領内村々の困窮を救うためいわゆる「御救銀札」の発行をはじめた。これは、銀札の拝借を希望する村人が自己の所持する田畑・屋敷などを質物に入れて相応の銀札の貸付けをうけるものである。拝借主は拝借高だけ自分名義の銀札を発行することができた。いわば正銀の用意なしに銀札を発行して使うことができるのであるから、さしあたって有利な制度である。もちろん自分名義の銀札をだしたのであるから、ときがくれば、正銀を用意して銀札を回収しなければならないが、拝借期間中は月七朱(〇・七%)の利息を藩に正銀をもって納めるだけで、かなり長期の間正銀の用意なしに金(かね)(銀札)を使うことができたのである。
 川辺郡上之島村(尼崎市)の尼崎藩上之島組大庄屋岡村十左衛門は経済的に困窮し方々から借金して返済に困っていたが、たまたまこの御救銀札の制がおこなわれたため、宝暦三年銀札の拝借を藩に申請し銀札六五貫の拝借・発行を許された。このとき岡村は借金の貸し手のひとりである小池治右衛門につぎのような話をもちこみ、銀主になってもらっている。すなわち、岡村は六五貫の銀札を一枚残らず小池に手渡すこと、前からつづいている両者間の貸借関係を継続し、その返済は一五ヵ年賦とする。正銀による借金の返済が万一滞ったときは、六五貫の銀札を小池が引き取ってよい。そして元利差し引いた残りの銀札は岡村へ返す。銀札と正銀との引替えの手数料その他の利益金は、小池に六五%、岡村に三五%の割で配分する、といった内容のことが約束されたのであった。
 これをみると、小池からの借金の返済に困っていた岡村は、このままでは破産をまぬかれない。そこで銀札を拝借し、その銀札をそっくり小池に渡すことによって借金の一五年賦返済の話をとりつけたということになる。公的な藩の銀札の発行をうけ私的な貸借関係の決済に利用することによって破産をまぬかれ、あわよくば一五年の返済期間を家政建直しに有利に使おうというものであった。
 それはともかくとして、小池が大規模に酒造を営むだけでなく、高利貸資本としても大きな資金を動かしていたことを知ることができる。
 なお酒造業以外の加工業について付言するならば、さきの『摂陽群談』には市域の山本の植木のほかに、つぎのような名物をあげている。
 
  大原野箕(ミ) 同郡(川辺)大原野村ニ造り市店ニ送ル、体(ナリ)ヲ能シ農家ニ用ル事宜シト云ヘリ
  千本銀(シロカネ) 同所千本ノ地ヨリ出、多田銀山ノ奥也
  左曽利簀(イカキ) 同郡左利曽村ノ俗(ヒト)造之市ニ沽(ウレ)リ