つぎに酒造業とも関係の深い商品として薪があげられる。在郷町伊丹に関する延宝五年(一六七七)の史料に「伊丹ニ壱ヶ月ニ十二ノ市御座候、(中略)売買仕候物ハ割木・柴・莚(むしろ)・木綿ニて御座候」とある。延宝ごろともなれば、伊丹や池田など摂津の在郷町は、月に何日か開かれる市で営業する段階をこえて、常設店舗で営業する段階に達していたと思われるが、それはともかくとして、右の史料にもみえるとおり、酒以外ではとくに薪が流通商品として注目される。さらに寛文十三年(一六七三)伊丹の商人が銀札の発行を願い出た文書に、申請理由として「薪・駄賃・万小払不自由ニ御座候間」としるされている。江戸積酒の特産地である伊丹で貨幣不足が生じるほど伊丹へ薪が大量に送られ、酒造業あるいは在郷町の燃料として消費されたことをしめしているのである。
そればかりでない。伊丹が池田とともに周辺の村へと売る薪の集散地となっている。川辺郡潮江村(尼崎市)に関する延宝五年の史料に「伊丹村市ニて柴ヲ買申候」とあり、元禄十四年(一七〇一)の川辺郡万多羅寺村(尼崎市)の村明細帳にも「柴薪木は伊丹・池田之市ニてかい調申候」としるされている。伊丹・池田における薪の集散の盛大がうかがえる。
この薪は伊丹から北方にあたる川辺郡北部の村々や有馬郡から運ばれたようである。天和四年(一六八四)、往来の人馬が盛んに米谷村から農道を通って安倉村領内へと通り抜けるとして、小浜駅所がその脇道に馬止めの栗柱を打とうとした。これに対して米谷・安倉村が反対して奉行に提出した文書に、「馬留出来候てハ右両村ニ不限、三四里之間四十ヶ村余之者農作亦ハ柴薪を持運候ニ廻り道いた」さねばならなくなり、難儀であると述べている(三九四ページ参照)。米谷・小浜方面から安倉を通って、道は伊丹へと通じる。山方の川辺郡北部や有馬郡村々より盛んに伊丹方面へと柴・薪が送られていたことがわかる。
一七世紀の村明細帳はないが、一八世紀における市域の村の村明細帳には薪の流通に関する記述がみられる。川面村に関しては、享保八年(一七三二)の村明細帳に「耕作之間ニ男薪商売」とあり、寛保三年(一七四三)の村明細帳にも「男ハ柴薪売・かち荷物」と出ている。一八世紀後半になるが、米谷村明和四年(一七六七)の村明細帳に太郎兵衛・与兵衛について「農作之外薪木商売少々宛仕候」とあるし、長谷村寛政十一年(一七九九)の村明細帳には「男ハ農作之外柴売仕候、但し池田・伊丹、女ハ右同断薪こり仕候」とみえる。また川西市域の黒川村・国崎村享保六年の村明細帳や一庫村寛保三年のそれにも「柴木ヲ池田・伊丹へ持参商売」とか「池田・伊丹柴木売」などとあり、川辺郡北部や有馬郡あるいは能勢郡の山をもつ村々から薪が供給されていたことが推測される。
以上綿作や植木業・江戸積酒造業、あるいは薪の商品生産・商品流通について述べ、一七世紀以来一八世紀に向かって商品経済が進展していったあとをうかがった。さきに本章第二節で述べたことであるが、小浜街道を通る物資の増加とそれに伴う街道の整備にうかがえるような、寛文~元禄期(一六六一~一七〇三)における商品流通の進展と考え合わすとき、先進地域に属する宝塚市域の、一七世紀後期・一八世紀前期における商品経済の発展を察することができよう。