ここで近世中期における村々のなかで起きたおもなできごとについて、時代を追って述べてみよう。
中山寺村は中山寺の門前町であり、寺以外に門前百姓、門前中などとよばれる住民がいた。文禄三年(一五九四)の中山寺村太閤検地帳には七石六斗三升一合の久右衛門を筆頭として、二石台一名、一石台二名、一石以下の高持百姓五名、計九名の高持ちの門前百姓が登録されている(二二一ページ表14参照)。また延宝七年(一六七九)の同村延宝検地帳には一三名の農民が高持ちとして名を登録されている。この高持ちの農民が村の主たる構成者として本役家(ほんやくや)と称していた門前百姓である。ほかに旅籠などをいとなむ無足家もかなり住んでいたように思われる。元禄六年(一六九三)には本役家一四名、無足家一六名を数えた。門前百姓といわれるからには、本役家はもともとは中山寺と何らかの関係があったにちがいないが、その関係などについては具体的にこれを明らかにすることはできない。
ただ元禄六年古中山寺本山境内の山林の柴刈りその他について、門前中(門前百姓と無足家)が中山寺から権利を渡されることがあって、近世中期に何らかの意味で住民の寺に対する関係が改善されたことが推測される。
古中山寺本山境内というのは、南はあびこの峰水流まで、東は寺境内との境まで、北は谷まで、西は山道までの範囲とされており、太閤検地のときにすでに除地となっていた山林である(三六〇ページ図12参照)。元禄六年十一月の「本山境内ニて門前え相渡ス山之覚」をみると、寺と門前中との間に古中山寺本山境内の山林の利用についてつぎのような取りかわせがなされたことが知られる。
山内の用木はみだりに切らない。よんどころない理由で切るときには寺に相談する。木柴はめいめい勝手に刈ってよい。木の枝は三年に一度日限を決めて切ること。柴刈りの地区割りは本役家二分、無足家一分の割でおこない、将来増えるであろう本役家・無足家にも割り渡すことができるように、予備としてじゅうぶんな地域を配分せずに残しておく。この予備に残したところは、割渡しがおこなわれるまでは村中で支配利用する。北の谷より北方の柴山は村中で支配利用してよい。本山境内の利用を認めるかわりに、ふもとの現中山寺の境内にある新林・古林の木柴は落ち葉にいたるまでいっさいとらない。
右のような内容をとりかわした。「門前え相渡ス山之覚」とあって山を渡すという表現となっており、あるいはこの山について「村中として支配」してよいといったことばがみられる。しかし支配の内容は「木柴等支配」であり「立毛支配」であって、渡すといっても所有権の移譲でなかったと考えられる。それはともかくとして、このことによって、元禄期に中山寺に対する門前中の地位が一歩前進したことを知ることができる。