寛永十九年(一六四二)山本村が山本村(口谷・丸橋を含む)と平井村とに村切りされ、高が一〇〇〇石と二五九石二斗五升とに分けられたことについてはすでに述べたが(三一四ページ)、このときの村切りは田畑の高をふたつに分けただけで、山本四ヵ村立会の草刈り場まで明確に分割を完了したわけではなかった。この草刈り場の村分け、すなわち昆陽野芝地の山本村・平井村両村への分割は享保十五年(一七三〇)と安永九年(一七八〇)の両度におこなわれているのである。
山本四ヵ村立会の草刈り場であった昆陽野芝地は近世初期から荻野村(伊丹市)の宛(あ)て野とされており、荻野村は山本四ヵ村へ年々野料米六斗を納めてきた。たまたま寛文十三年(一六七三)昆陽野芝地の東にある猪名野芝地について山本村と久代村(川西市)とが所有をめぐって争い、そこが久代村領であると裁許された。これを契機に山本四ヵ村の草刈り場がなくなったとして、山本四ヵ村は延宝三年(一六七五)になって荻野村に宛てている昆陽野芝地をもどすよう荻野村に求めた。荻野村がこれに応じないため、山本四ヵ村は翌四年京都町奉行所に訴えでた。吟味のうえ裁許がおこなわれ、昆陽野芝地の北の方四割方は山本四ヵ村へもどすこと、残る六割方は従来どおり荻野村へ宛ておき、野料米としてこれまでの六割にあたる三斗六升を年々山本四ヵ村がうけることに決まった。当時すでに山本四ヵ村は山本村と平井村とに分村していたから、この野料米は三斗六升のうち七升五合を平井村に渡し、残り二斗八升五合は山本村が受け取ることに決まった。これは山本村と平井村の村高にしたがって比例配分したものである。
このように山本村と平井村とが野料米を分けとることになったが、このときはまだ山本四ヵ村にもどされた芝地を山本村と平井村とで分割したわけではなかった。
その後、延宝四年の京都町奉行所への願い出につづいて享保八年に、山本四ヵ村は荻野村に宛てている残り六割方の昆陽野芝地(伊丹市東野の北)を取りもどしたいと大阪町奉行所へ願い出た。しかしその願いは認められなかった。山本四ヵ村はさらに享保十二年に大阪町奉行所に対して荻野村へ宛てている芝野の開発を願い出たが、それも、古来のとおり荻野村に宛てておくよう裁許が下り、開発―取もどしのことは実現しなかった。
以後山本四ヵ村が荻野村から宛て野を取りもどす話は文政年間まででないが、延宝四年に返却をうけた土地について、享保年間新田開発計画がもちあがっている。当時山本村は旗本板倉氏領、平井村は忍藩阿部氏領であったが、開発願いは山本村で許可になったけれども、平井村では支障があるとして許可されなかった。そのため「山本村分」だけ開発され「平井村ニ相当リ候分」は開発されないことになった。こうして開かれ、享保十五年に検地を受けたのが大野新田である。「平井村ニ相当リ候分」といっているように、当時はまだ明確に両村に芝野が分割され境界が決まっていたわけではなかったが、大野新田の開発にともない、大野新田が山本村分、南東部の開発されなかったところが平井村分ということになり、結果的に昆陽野芝地がふたつに分けられ、村切りが芝地について完了することになったわけである。
なお昆陽野芝地のうち荻野村に宛てている部分に関して、面積をはかったうえ山本・平井両村に明確に分割されたのは安永九年のことである。山本村分八町二畝、平井村分二町八畝に分けられたが、これまた両村の村高にほぼ比例配分して分割されたことがわかる。