正徳・享保・元文の洪水

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 つぎに元文五年(一七四〇)武庫川の洪水で伊孑志村の田地が流れ、その代地が武庫川左岸に与えられたことについて述べるが、その前に武庫川の洪水のことをかえりみておく必要がある。
 武庫川流域の村々は近世の間に幾度か洪水に見舞われた。古くは慶長年間(一五九六~一六一四)と明暦元年(一六五五)四月の両度に武庫川下流右岸の上瓦林村堤が決壊した記録があり、万治二年(一六五九)に同じく武庫川下流右岸の小曽根村堤が切れた記録がある。見佐村の集落と田畑が一七世紀中ごろの洪水で流れ、村が小浜村地内に移ったというのは(三一七ページ)、あるいは明暦元年か万治二年の洪水のときのことであるかもしれない。
 市域に関する記録としては、一八世紀に入って正徳二年(一七一二)七月三日に伊孑志村堤が三〇〇間にわたって決壊したこと、蔵人村の堤や逆瀬川・仁川なども「散々に切れ崩」れたことが知られている。この日の洪水では、左岸の西昆陽・常松・常吉堤も九三間にわたって決壊している。伊孑志村堤についてみると、正徳二年につづいて享保元年(一七一六)七月十七日に一〇〇間が決壊し、のち修復されたが、同十年九月四日にふたたび一〇〇間が決壊している。
 しかしなんといっても武庫川流域に大被害をもたらした洪水は元文五年六月九日の洪水であった。伊孑志村堤はこのとき前後にみられない五〇〇間にわたる大決壊となっている。小林村の福井堤も切れた。また武庫川沿いだけでなく山あいの村でも被害がでており、下佐曽利村では外谷川堤が字出口で三〇間、橋詰で九三間と七〇間、九兵衛畑で五〇間、壱つ町で三五間が切れ損じ、長谷村では字南谷の古池が切れた。