この元文五年の洪水による堤の決壊で、伊孑志村では田畑高二四〇石余のうち、その半ばに及ぶ一一九石七升九合の田畑が川成潰地(つぶれち)となってしまった。このとき伊孑志村寄りに残っていた見佐村の田畑八石六斗三升も流れたものと思われる。被害は大きく、かつ川筋が違って旧地での田畑の再開墾がむずかしかった。そのため宝暦四年(一七五四)になって川成潰地の代地として、川向いの武庫川左岸、古川床のうちで伊孑志村に二五町余が与えられている。さきに一七世紀中ごろの洪水で左岸に移っていた見佐村にも今回流れた田畑の代地として二町余が与えられ、さらにその代地つづきに四町歩の流作場新開請所も指定されている。
伊孑志・見佐両村に与えられた代地の開発は、一般の流作地開発の場合に準じた扱いをうけた。すなわち宝暦四年から開発にかかることにして同六年まで三年間は鍬下年季(免租の期間)とし、同七年から開発された分について検地がおこなわれ、その新開高に対して見取りの方法で年貢が徴収されることになった。なお見佐村に与えられた新開請所の方は、宝暦四年に開発を開始して、鍬下年季なしにその年から年々開発分を高入れしていき、見取りの方法で年貢が徴収されることになった。