さて代地の開発はその後あまりはかばかしくは進まなかったように思われる。それというのも武庫川は大水ごとに川筋が変わり、代地の地域も安定した状態を保つことがむずかしかったからである。両村に代地が与えられてからあまり年もたたない時期に、囲堤が七、八丁ばかり流れ、代地の大半が流失してしまった。その後残った土地に内囲いの仮堤を築いて防いだが、それもいつしか破損して、ついには川筋となってしまったらしい。そのため代地の耕作は作れるところで作るといった形となり、いわゆる見取場として年貢の収取をうける状態がつづいている。
しかしその後またまた川筋が変わり、代地付近はふたたび宝暦四年に与えられたころの状態にもどったようである。そこで享和元年(一八〇一)伊孑志・見佐両村はしっかりした連続堤を築いて代地を再開発したいと願い出た。ところが武庫川左岸の村々二八ヵ村が堤の築立て・代地の再開墾に支障を申し立てた。二八ヵ村というのは昆陽井・野間井・生島井・武庫井・水堂井などに属する下流の村々であるが、たとい再開発であろうと、上流で開発がおこなわれると、それだけ下流に流れる用水が少なくなる。したがって開発の理由は何であれ下流の村々にとっては支障になるとして、代地の開発に反対したのである。伊孑志・見佐両村は、代地は川床より四、五尺も高いので、武庫川筋をせきとめて代地に水を引くようなことはできない。したがって下流の用水に支障が生じることはありえないとして、願いどおり堤を築き開発を許されたいと願っている。
この伊孑志・見佐両村と二八ヵ村との争論は足かけ五年たった文化二年(一八〇五)になってもつづいている。その後の推移はわからないが、堤築立ての願いは結局認められないままとなったようである。とうとう文化五年八月になって、伊孑志村は、代地が村の対岸にあるため、洪水のときの水防に手がかかるし、耕作も厄介(やっかい)であるとして、見佐村と話し合い、代地を無代で見佐村の永請地とすることにしている。伊孑志村はついに代地の耕作を放棄したわけである。
ただこの地の所属はなお伊孑志村であったため、代地の年貢は年々見佐村から伊孑志村に渡し、伊孑志村から上納する方法をつづけねばならなかった。しかしそれも面倒であるとして、地租改正後の明治九年(一八七六)になって、伊孑志村代地を正式に見佐村の地内に編入することに協議がまとまっている。伊孑志村代地はすべてここに見佐村の土地となったわけである。