近世中期にも長尾山の口山その他でいくつかの山論が起きている。いずれも土砂留普請とか享保の新田開発等を契機に起きており、それぞれ近世中期らしいきっかけで起きた争論という特色をしめしている。
①古中山寺境内争論(二) 延宝年間(一六七三~八〇)足洗川の西の地域について、そこが古中山寺本山境内か米谷・中山寺・中筋三ヵ村立会の山かをめぐって中山寺村と米谷・中筋村との間に争論が起きた。結局そこは古中山寺本山境内であるとの裁許が下されて中山寺村の勝訴に決した。このことについてはさきに述べたところである(三六〇ページ参照)。
ところが享保十二年(一七二七)六月ふたたび争論がもちあがってくる。ちょうどその前年武庫川筋の土砂留普請が尼崎藩の担当と決まったが、いよいよ土砂留場所指定のためにこの年尼崎藩の役人が見分にやってきた(四一三ページ参照)。米谷・中山寺・中筋のものが案内にでたが、そのさい中山寺村のものにいわせると、古中山寺境内除地であるところを米谷・中筋村のものが三ヵ村の立会山(長尾山口山)であると申し立てたということで、中山寺村と米谷・中筋村との間に争論が再発したのである。
米谷・中筋村の方では、土砂留御用案内のさい中山寺村の寺僧が松木の生えているところは中山寺除地、立木のない野山は三ヵ村立会山であるといったが、それはまちがいである。足洗川と荒神川の間の前山は米谷村の口山(三六〇ページ図12参照)であると中山寺村に反論している。
そこで中山寺村は延宝の争論当時の立会絵図を証拠として提出し、論所は中山寺の境内除地であると再反論した。
結局享保十七年二月八日大阪町奉行所において西町奉行松平日向守勘敬(すけゆき)・東町奉行稲垣淡路守種信(たねのぶ)による裁許が下され、延宝の立会絵図のとおり、論所は中山寺の境内除地であり、また米谷村がいう足洗川と荒神川の間の前山、すなわち東は布引本山道、南は飯塚山、西は散在の山道、北は猪去尾崎の横谷までの三ヵ村立会山は米谷村一村が利用することになっている口山の部分ではないとして、中山寺村の勝訴、米谷村の非分に決している。
以上のように裁許が下ったがその直後の享保十七年二月十六日・十七日に中山寺村のものが山へはいり松の木を切ったところ、米谷村のものからさっそく訴えでた。そこは享保十二年以来争ってきた論所の外の山で、清澄寺の古跡があった字清(きよし)山というところである。三十年来米谷村がそこを松林に育てて来たのを中山寺村のものが理不尽に切り取ったと主張したのである。これに対して中山寺村は、ここは享保十二年以来の論山である。二月八日に裁許が下って留山(立入禁止)であったところが解除になったので切りに入ったまでであると反論した。
この争論のさい、近年米谷村が持ち山にあった小宮を三ヵ村立会山内の飯塚山すその東谷に移したことが同時に問題になった。かかる行為は、立会山を米谷村一村の口山に取りこもうとするものであると、中山寺村から訴えたためである。この問題も加わって争論は長引いた。ようやく八年後の元文五年(一七四〇)になって、米谷村は小宮をもとのところへもどすことに決まり、同時に山論も願い下げることに話がついている。おそらく米谷村の主張が通らなかったのではないかと思われる。
②長尾山内新開場争論 享保改革の大きな柱であった新田開発奨励の流れに乗って長尾山内の各地で新開計画が立てられたが、そのひとつとして、山親切畑村が長尾山奥山内で二五町歩の新開と二五町歩の囲林の設定を許されたことはすでに述べた(四一八ページ参照)。この新開場をめぐって山親切畑村と山子村々との間に争論が生じている。
まず山子五八ヵ村は今まで村々が刈り取ってきた柴木まで切畑村が切り落として新開をはじめたとして難渋を訴え、かつ切畑村への意趣返しに享保十三年正月に松の木などが生えているところを切り取る行動にでた。それを見とがめた切畑村は切り取りに参加した川面・安倉・荒牧・鴻池の四村を相手取って大阪町奉行所に訴えを起こしている。
ついで同年七月、正月に切り取っていた松木を山子村々が取りにでかけたことからふたたび争論が起きている。切畑村にいわせると、三〇〇人ばかりの山子村々のものがよきやなたを持って山にはいり込み、はては切畑村の百姓持ちの古林にまではいり込んで松木を切り荒らしたという。彼らから押収した名札に平井・久代両村庄屋の名があるところから、切畑村は両村の庄屋・百姓を呼びだして吟味されたい旨訴えでている。
これに対して平井・久代村はつぎのように反論した。去る正月切畑村の新開指定地外のところで山子村々が切った木柴を切畑村が大部分取り込んでしまった。山子村々は今回訴えられたが、正月以来刈り干ししてある木柴を取りにいったまでである。ところが切畑村のものが大ぜいでてきて峰から石を投げ鎌や山棒その他を奪い取った。新開指定地の定杭が打ってあるところをよく知っているものを付き添わせて行ったのに、切畑村ははいってはならない場所にはいり込んだと主張し、本来なら帰さないところだが今回はとくに許して帰宅させるから、今後はいり込まぬようにと申し付け、さんざん打擲(ちょうちゃく)した。切畑村は三〇〇人というが、木柴を取りにはいったのは四〇人である。よきやなたを持ってはいったことはなく、正月以来刈り干ししてある木柴を取りにはいったまでである。名札押収云々のことは切畑村がたくらんだことであり、切畑村の古林にまではいり込んだ事実はない。こう反論した。
同じ趣旨のことを山子五八ヵ村のうち二五ヵ村の総代からも訴え、今後切畑村が妨害しないよう申し付けられたいと願っている。
③満願寺境内山林争論 長尾山口山のひとつに山本・平井・満願寺の三ヵ村立会口山がある。そしてそれとは別に、満願寺村の村域内に満願寺の境内山林がある(三五五ページ図10参照)。この境内山林の部分に享保十七年四月平井村と山本村枝郷丸橋・口谷の三ヵ村が立ち入り草を刈り取ったとして、満願寺別当円覚院が訴えた。相手三ヵ村が境内山林へ立ち入り乱暴しないように注意してほしいと願ったものである。
これに対して平井以下三ヵ村は、満願寺村が論所を満願寺の境内除地であると称しているが、第一、満願寺に除地があるとは聞いたことがない。それはともかく、論所は境内地ではなく、長尾山のうちの山本・平井・満願寺立会の口山であると反論した。
五月七日双方が対決する予定であったが、訴えていた満願寺別当が同月三日職を退いたため争論は中止となった。