羽束山山論 西谷地区の山論として、すでに延宝八年(一六八〇)に波豆村と有馬郡香下村との間におきた山論、同七年におきた波豆村と有馬郡桑原・山田村との争論、宝永元年(一七〇四)に波豆村と木器村との間に起きた山論について述べたが(三六二・三六六ページ参照)、近世中期には宝暦二年(一七五二)に香下村が波豆・木器両村を相手取って起こした羽束山をめぐる争論がみられる。
同年六月十八日・十九日に波豆・木器両村のものが羽束山内にはいり込んで木を切り取り、さらに八月十七日には五〇〇人もの人数が早鐘・太鼓で乱入し、羽束山の木七一三本をしばしの間に切り荒らし、新田の鹿垣(ししがき)まで切り破ったとして訴えたものである。波豆・木器村は麻田藩青木氏領、香下村は三田藩九鬼氏領である。
香下村の主張はこうである。南は大橋(千刈水源地の北端、波豆から香下への道にかかる橋)下の井関から、北は境の谷井関までの間は、羽束川を限り東は波豆村、西は香下村領である。北では境の谷から梅の木かたはを見通す線を限って東北は木器村、西南は香下村である。したがって論所羽束山は香下村領に属するとした。これに対して木器村の方では、羽束山は川辺郡であり羽束山原には木器村の村高にはいっている田地があると主張し、波豆村も土砂留帳面に大橋西詰付近について波豆村田地入組とあるのをよりどころに、羽束川の西にも波豆村領があると主張して争ったのである。
さて争論が起きると、大阪町奉行所は双方に対して、裁許が終わるまでは論所に立ち入って柴草を刈ったり田畑の植付けをすることを禁じる旨いいわたした。ところが翌宝暦三年八月、その論所に波豆村のものがはいり込んで柴草を刈っているのを香下村のものがみつけた。波豆村のものが刈り取った柴草は波豆村庄屋に預け、香下村はこの事実を大阪町奉行所に届けている。しかしはいり込んだのが女であったため、問題がそれ以上発展しなかった。
ついで翌九月には、波豆・木器村のものが一二〇人ばかり一ノ谷新田の庄左衛門・浅右衛門の両家へ押し寄せ、家のまわりの木綿やごぼう・大豆などを引き抜き、家にとりいれてあったきびやたばこを取りだして踏みつぶす事件が起きている。このときは三田藩の指示で香下村からは訴えでないことにしていたところ、波豆・木器村の方から香下村のものが立入り禁止の論所内で勝手に植付けをしていると訴えでてきたため、双方が大阪町奉行所に呼びだされる始末となっている。香下村は、植付け禁止になってからは論所内でいっさい植付けはしていない。論所外のところで作り、家へ持ち帰っていた収穫物に波豆・木器のものが狼藉を働いたと訴えた。その陳述が認められ波豆・木器村の行動が非とされたようである。
山論であり川辺郡と有馬郡の郡境争論でもあるこの争いは、どういうわけか裁許が下されないまま長い年月を経過した。このため宝暦六年ごろから争論村々が難渋を訴えはじめる。まず同年五月香下村が願いでた。香下村は柴木を売って渡世していたのに鎌留めがつづくと売り木ができない。そればかりでなく、薪や肥やしの柴草、牛馬の飼い葉をとることもできず困っている。また論所を通る道筋もことのほか破損して往来の旅人が難渋しており、羽束山の観音堂も長らく葺きかえができないため大破に及んでいることなどを述べて裁許を促進されたいと願っている。
その十一月には、香下村だけでなく相手の波豆・木器村も加わって三村が共同で裁許の促進を願いでた。またそののち宝暦八年正月にも香下村と香下寺からそれぞれ願いがだされたが、香下寺は寺の修復ができないと訴えたのである。このように争論が長くつづき早期解決を求める希望が強くなったなかで、争論が起きて八年後の宝暦十年四月、取噯人(とりあつかいにん)をいれてようやく争論が下済となっている。つぎのような条件で和談が成立した。波豆と香下の村境については、下滝の下の四ヵ村(波豆・桑原・山田・塩生野)の境から北、木器村境までは羽束川の流れを境として、川の東は波豆村、西は香下村とする。また木器と香下の村境については、字梅の木かたはから字境の谷へ見通し、西南は香下村とする、というのである。こうした条件は当初から香下村が主張していたところなのに、なぜこのように裁許が遅れたのか、その理由がなかなかわかりかねる。