明和期の山論

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 宝暦十一年(一七六一)最明寺川上流の長尾山口山のことで山論が起きた。争論の起こりについては明らかでないが、満願寺口山・山本(以下丸橋・口谷を含む)・平井・満願寺の立会口山の地区で村々の利用区分がもうひとつはっきりしなかったため、平井村と山本村・満願寺村の間に争論がもちあがったようである。差組・猪淵(以上猪名川町)・東多田(川西市)三村の庄屋が取噯人となり、明和三年(一七六六)にいたって和談が成立し、ほぼつぎのように口山の利用区分が定められた(図21参照)。
 
1 東は岩ヶ谷新道をかぎり、西は最明寺川・鳩川、それより上流は大藪谷のひと筋東の、高峰への尾根の線まで、北は最明寺滝より鍋倉山・高峰への尾根の線をかぎりとして、この範囲は平井村の口山とする。
2 最明寺川の上流、最明寺滝からトツケまでの、川より東北の部分は満願寺の口山とする。
3 1の平井村口山と東で接する形で、鳩川から大藪谷のひと筋東の尾根を通って高峰にいたる線より西は山本村の口山とする。
4 1の平井村の口山と西で接する形で、西は岩ヶ谷新道をかぎり、東は栄根・寺畑立会口山との境まで、北は2の満願寺の口山と接する尾根通りまでは山本村の口山とする。
5 鍋倉山の峰より北方の原野は、最明寺滝よりトツケまでを東の境として山本・平井・満願寺の立会口山とする。
6 葛(くず)ヶ原は取噯人がもらいうけた後、山本・丸橋・口谷・平井四村の村役人に与える(以後葛ヶ原は役人山とよばれるようになった)。
7 山道はだれでも自由に通行してよい。
 
 以上が明和三年の取替せの内容である。その後、6の葛ヶ原については、翌明和四年山本・丸橋・口谷・平井の四村の村役人が協議して、これを三つに区分して分割することにした。いちばん北を平井村、その南を山本村、いちばん南を丸橋・口谷がとることに決定した。
 

図21 山本・平井・満願寺口山山論図


 
 ところがその後ふたたび争論がもち上がったようで、翌明和五年に、3の山本村口山と4の山本村口山の部分について平井村がそこに割り込んで立会口山とする協定ができている。すなわち、
 
8 3の山本村口山のうち、鳩川から大藪谷・東原・赤土原・末広中尾通りを経て高峰までの地域は山本・平井村の立会口山とする。
9 4の山本村口山のうち狐谷より南は山本・平井立会の口山とする、というものであった。
 
 なお明和四年に三分されることになった葛ヶ原は、その後樹木が生長してきたので、文化十四年(一八一七)あらためてくじ引きして、北から山本村、丸橋・口谷村、平井村の口山とすることに決定したのである。