寛政期の山論

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 花折ヶ峰・浄橋寺山争論 寛政七年(一七九五)九月川面村の農民七人が浄橋寺山の北、花折ヶ峰の南深谷(西ヶ谷)の山で柴を刈っていたところ、生瀬村のものがここは生瀬の持ち山であると主張して争論が起きた。川面村の方では、青野道より北は長尾山に属する川面・安場立会口山であると主張した。この争いは十月二日生瀬村から大阪東町奉行所に訴えが起こされ、延々実に一〇年に及ぶ長い争論となる。
 この論所が長尾山の口山内であるかどうかをめぐる争いであったため、長尾山の山親である切畑村をまじえて争論が展開されたが、たまたま切畑・生瀬が同じく大津代官石原庄三郎正通の支配する直領であったところから大津代官所に所管を移して争われた。はじめ大阪東町奉行所へ訴えたときには、生瀬は南深谷の水流が境であるとしていたが、大津代官所に裁判が移ると、さらに北の番匠谷が境であると主張を変え、番匠谷の上手吉水道出合から南、花折ヶ峰の尾根(長尾道)を通り十河川流末までを境とし、その西南方はすべて生瀬村領であると主張した。これに対して川面・安場村は青野道から北は長尾山の口山であるから論所は川面・安場立会の口山であると主張し切畑村もこれに同調した。
 しかし生瀬村が主張するとおり、青野道より北に浄橋寺山など生瀬に関係する地名があり、さらに青・道ノ上・箱木原・花折ヶ峰・浄橋寺山など青野道より北にある字名が生瀬村の延宝検地帳にみえ、それらの畑地の高は二〇石余りに達する。もし青野道より北が長尾山の口山だとすれば、これらの地名・年貢地が切畑村領内にあることになって説明がつかない。切畑村はその返答に窮したとみえ、八年四月になって、長尾山の口山については切畑村は山年貢の徴収以外関知するところでないとの名目で、「このたびの論所はどのようになっても当村から口出ししない」と誓約し、争論から手をひいてしまった。この段階で訴訟は大津代官所の所管からふたたび大阪町奉行所の所管にもどされたと思われる。
 

図22 花折ヶ峰浄橋寺山山論図


 
 その後同年六月には中筋村の治右衛門が取噯をかってでた。彼は自宅にあずかっている延宝の長尾山五八ヵ村立会絵図をよりどころにして仲裁案をだしてきた。この案というのは、やがて文化二年和談が成立して確定する境界線とほぼ同じであるが、つぎのような線で和談にしてはどうかという提案であった。南深谷の南手、山すその秤岩から見通し浄橋寺山の尾根道筋を通る線を境とする。東は前ヶ峠から十河川流末までの長尾道を境とする。以上の線を境として、北東は川面・安場の口山、南西は生瀬村の山として和談してはどうかというものであった。川面・安場は、村にこの争論の証拠となるべき文書がないので、中筋村の絵図さえ見せてもらえば村人たちも提案を納得する。だからその絵図を見せてもらいたい。生瀬村が訴えてきたため仕方なく訴訟に応じているが、村方が困窮しているので早く和談にしたい、と治右衛門に申し入れた。しかし治右衛門が延宝の絵図を見せないため、川面・安場はこの提案を拒否した。治右衛門も早々に仲裁を辞退してしまった。
 その後川面・安場両村は困窮を理由に絵図を作って争うことを好まず、つぎのような案をしめして和談にしようとしている。すなわち生瀬村の延宝検地帳にある花折ヶ峰三町九反六畝と浄橋寺山二町八反八畝に相当する山を青野道以北の地に定め、この分は生瀬村領と認め、あとは青野道以北全部を川面・安場の立会口山とする、という案である。しかしこれは生瀬村の反対にあってつぶれてしまった。
 結局八年十一月双方は立会絵図を作成して争うこととなる。この絵図作成についてもいろいろと曲折があって作成に手間どり、縮尺の正確な論所の墨引図ができあがったのは九年九月であった。つづいて書き流しにする長尾山の部分と生瀬村の持ち山の部分を書くのに享和二年(一八〇二)までかかった。こうして五年半ぶりに絵図が完成したので、その絵図に添えて、争論当初からの経過ならびに争論の論点に関する証拠と主張をつぶさにしるして大阪町奉行所に提出した。しかし明確な裁決は与えられなかった。
 ようやく文化元年(一八〇四)十二月、大阪上本町一丁目の葭屋善八と山本村丈右衛門の仲裁によって和談が成立し、境界線は図22にしめすとおりに決まった。南深谷の谷尻武庫川との出合の南西岩先から、尾根づたいに東へ長尾道筋に達し、それより下手へ十河川流末に近い鬼坂までの道筋を境界線とすること、この線の西南方は生瀬村領分とし、この線から北方・東南方は川面・安場村口山ということで落着した。争論の発端となった南深谷の山というのが結局どちらの領分であったかは明らかでないが、ともかく一〇年の歳月を費やして文化二年三月、関係三ヵ村が調印して争論は終結した。
 ただ大詰の二月の段階で、長尾山の山子五八ヵ村が集まって検討した結果、今回論所となった付近は長尾山にちがいないが、川面・安場両村の立会口山部分ではなく五八ヵ村立会の奥山部分であることが明白になったとして両村は、論所は川面・安場の口山であるとの主張をとり下げ奥山であると主張を訂正した。それによって長尾道より東は川面・安場の口山であるが、長尾道より西、浄橋寺山の境界線より北は長尾山奥山であると決定したわけである。