少ない水論

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 宝塚市域には武庫川以外に大きな川がなく、良元地区三村(伊孑志・小林・蔵人)を除けば、井組を構成して同じ用水溝から数ヵ村が取水している事例はない。したがって取水をめぐって村々の利害関係が対立し、用水争論が起こるといったことがあまりみられない。近世前期には水論らしい水論はまったく起きていないし、近世中期にも最明寺川で下流村々と水論が起きるほか、他の村々については小規模の水論が散見されるにすぎない。その数少ない水論も村と村との深刻な水の取り合いといったものではなく、用水にからんだ紛争といった程度のものである。そこで年次を追って、水利をめぐって起きた事件について簡単に述べておこう。
 ①大原野村平井井関争論  宝永二年(一七〇五)六月大原野村が平井井関をきずくために下佐曽利村の山内へ入って芝を切ったとして争論が起きた。翌年大原野村は井関の土を取るために下佐曽利村の宝坂山のすそ、下佐曽利田の上の方で一反歩の芝取場を下佐曽利村から借りることにしている。その年貢として二合五勺を上納し、地代として年々銀三七匁五分を下佐曽利村に納めることで和談が成立した。
 ②中山寺・米谷村足洗川争論  享保十九年旱魃のさい、久しぶりににわか雨が降って足洗川に水がでたとき、米谷村のものが大勢くりだして中山寺村足洗川上の井関を取り払い、中山寺村の方へ水が流れないようにして下流の米谷村の田地に水を流したため争論となった。このときは、水の取りあいよりはむしろ米谷村のものが中山寺村の農民を打擲(ちょうちゃく)したことが問題となって、争論になった。結末は明らかでない。
 ③昆陽井取水溝争論  武庫川原から昆陽井へと水を引いている武庫川原の溝筋付近で、安倉村のものが延享四年(一七四七)に新田を開発し、また宝暦元年(一七五一)には川床に稲を植え付けた。このため両度とも、井水に妨げになるとして昆陽井組のものが安倉村を訴えている。安倉村がわびて落着している。
 

図23 良元地区水路図


 
 ④武庫川・逆瀬川落合新樋争論  宝暦七年逆瀬川が武庫川に落ち合う地点に伊孑志・小林・蔵人の三村が樋を築いた。これは元文五年(一七四〇)の洪水で付近一帯の伊孑志堤が切れ、川原のようすが一変したため、前からあった乙樋に代わるものとしてこの樋を築いたものと思われる。ただ樋の位置が乙樋より上流であったため、武庫川左岸(川東)の村々がこれを新樋とみなし訴訟を起こしている。昆陽井・野間井(富松井)・生島井・武庫井・水堂井の各井組村々が中心となって武庫川左岸の川辺郡一九ヵ村・武庫郡八ヵ村が伊孑志以下三村を相手取って新樋取払いを求める訴訟を起こしたものである。
 元文の洪水で伊孑志村の田畑は流され、当時はまだあまり再開発されていない。また小林村の田畑も福井堤が切れたため二〇〇石余りのうち過半がまだ再開発されていない状態である。蔵人村の田畑は四〇〇石余りであった。したがって川東の二七ヵ村からいわせれば、三ヵ村はそれほど多くの水がいらないはずである。それだのにこのような新樋を構えるのは、不要の水をとってそれを下流の百間樋井組村々へ流すためのたくらみである。これでは川東の村々は立ち行きがたくなるとして新樋の撤去を求めたわけである。
 ⑤安倉村昆陽井筋争論  明和八年(一七七一)安倉村字田川を流れている昆陽井の古溝筋を、昆陽井組のものが幅二間、深さ三尺ほどに掘り立てた。そのため川面・米谷村の悪水がその溝筋に落ちこんで、この井溝から水を引いている田川の田地に水が入らぬようになった。そこで安倉村は昆陽井溝を掘り立てないよう命じられたいと願いでている。
 このときどう結着がついたか明らかでないが、後に述べる寛政十一年(一七九九)の事情から察すると、昆陽井組は安倉村が堰を設けて水を取ることを認めたようである。
 ついで寛政五年、同じく田川地内と思われるが、昆陽井溝の堤のことで問題が起きている。昆陽井溝に接して安倉村七左衛門がもっている新田があったが、それを七左衛門が質物に入れて金を借り、それが返済できなくなったため、その質物を金主に渡すことになった。ところが七左衛門は新田を質入れするさい新田に接してある昆陽井の堤を質物に入れていた。それが質流れとなったのであるから昆陽井組は大いに驚いた。さっそく大阪町奉行所に訴え用水堤を金主から請けもどす訴訟を起こしている。まもなく堤は昆陽井組に請けもどされ、落着している。
 

写真190 安倉字田川付近の昆陽井筋


 
 寛政十一年には旱魃となった。安倉村は田川の田地に灌漑(かんがい)するため、三、四日に一度ずつ夜に堰をして水を引き、水が行きわたると堰を切って水を昆陽井に落とすようにしていた。ところがこの年昆陽井組村々は安倉村が堰をして水を取ることを認めないとして、水車でくみあげるようにいってきた。安倉村は字田川の田地はわずか一町二、三反であるから、従来どおり堰をつくって水が引けるようにしてもらいたいと訴えている。その後の経過はわからない。
 ⑥覆盆子(いちご)谷用水争論  今日の地名でいうと、御殿山三丁目の地内に広沢池がある。これは覆盆子谷とその西にある東ら谷・広沢谷の水をためて、十河川の東にある生瀬村の田畑に用水を供給する池であった。
 天明七年(一七八七)安場村は覆盆子谷筋の上流、丸尾かち合谷から溝を引いて、大水がでたときだけ覆盆子谷筋の水を用水としてもらいたいと生瀬村に申し入れた。両村の間に、春彼岸から秋彼岸までは常水の場合はいっさい安場村に水を与えない。ただし大雨のときには与える。そのため溝筋などの普請料として、生瀬村は銀九〇〇匁を安場村から受け取るということで協定が成立した。
 ところが享和二年(一八〇二)三月にわか雨が降ったさい、安場村へ引く溝筋を生瀬村のものがつぶしてしまった。安場村はこのことを大阪町奉行所に訴えた。双方対談の結果、生瀬村はつぶした溝筋を自村の人足でもとどおりに修復し、天明七年の協定を守ることで和談が成立した。