近世を通じて幾度か争論がみられた井筋は最明寺川である。寺畑村(川西市)の悪水を流す中川(現在の前川)と栄根村(川西市)の悪水を流す茂川(藻川)が最明寺川と合流する地点が論所となることが多かった。それは、最明寺川から流れでる土砂がこの地点に堆積(たいせき)すると、中川や茂川の排水が困難になるため、その排水施設をめぐって山本四ヵ村(山本・丸橋・口谷・平井)と寺畑・栄根両村の間に争論が生じているのである。
享和二年四月山本三ヵ村(山本・丸橋・口谷)は寺畑・栄根両村が新規に最明寺川の中に石段堰をつくったとして、両村を相手取って訴訟を起こした。平井村も山本三ヵ村と利害をともにするが、相手両村と同領(忍藩阿部氏)であるため表だって訴訟に加わらなかった。
寺畑・栄根村の主張はこうである。中川・最明寺川落合地点より少し上の最明寺川内に寛政三年(一七九一)以前から石留めの胴木を下に埋め、その上に高さ五間、内のり二尺の蛇籠を五本積み重ねて土砂留の堰としていた。それが朽ち損じたので、寛政三年、今後修復に人足や諸費用がかからないようにと石段堰にしたまでである。山本村々がいうように新規のものではない。石段堰の高さは蛇籠を積み重ねたときよりもむしろ低くなっている。この堰があるといっても、山本村々との境から四丁も下流で、その間の高低差は一丈五尺もあるから、この石段堰ができたからといって、山本村々に影響するところはまったくないと主張した。
このとき石段堰のほかに、寺畑村が最明寺川に設けているしがら堰(しがらみ)が問題になっている。これは中川の排水をよくするために、この地点へ最明寺川の土砂が流れ落ちないように砂留めのためにつくったものである。山本の村々はこのしがら堰があるため最明寺川に土砂がたまり、口谷村字中島の田の水抜けが悪くなって、少々の雨にも水につかり稲の植付ができないか、できても稲が成育しない状態になったと主張した。これに対して寺畑村側は、この堰は新規につくったものでない。中島としがら堰の間は一三〇間もあり、高低差も一丈余もあるので、中島の田に支障が生じるはずはないと答えた。
このような応酬のあったのち、享和二年六月直領山本三ヵ村の代官所(代官木村周蔵光明)と忍藩阿部氏の役所とが斡旋(あっせん)して仲裁人が選ばれ、その仲裁でつぎのように取り交わされて下済となっている。①石段堰の高さは下の胴木から五尺三寸、長さは川幅いっぱいの五間、堰幅は三間とする。②この石段堰より五八間半川上に、土砂留のため長さ五間、差渡し二尺の蛇籠をおく。その高さは一丈三寸とする。木口三寸の杭木一六本をつかってよい。③口谷村中島の水はけのために、中島と寺畑村との領境より一五〇間以内は、寺畑村領域のなかまでも口谷が自由に最明寺川の川ざらえをしてよい。④山本村と寺畑村との領域の南堤五一間の間は、山本村が堤の笠置普請をおこない、つねに北堤と同じ高さに保っておく。以上のような箇条を取り交わして争論は落着した(文政の争論については五七八ページ参照)。