将軍の代替わりごとに幕府が諸国の御料・私領の巡見をおこなったことについてはすでに前節において述べたが(四〇八ページ参照)、一〇代将軍家治の代の御料・私領巡見は宝暦十年(一七六〇)におこなわれた。そのうち私領巡見使遠藤常住・山角政因・一色直次は九月二十二日江戸を出発し、山城・丹波・丹後・但馬・播磨を回ったのち十一月摂津の巡見に来ている。
このとき米谷村は延享三年(一七四六)につづいてふたたび昼の休息所と定められた。この村の領主大和小泉藩片桐氏は、十月ごろからなにかと米谷村に触書をだして巡見にそなえての準備を命じている。道や橋の修繕、沿道の掃除のことや領分通過のさいの案内を勤める庄屋・年寄の服装のこと、沿道における諸注意、あるいは巡見使から村況について尋ねられたとき答えるべき返答の内容など諸事万端細かく注意を与えた。
巡見使は播磨明石から摂津に入り、兵庫・西宮に泊り、十一月二十一日鹿塩・小林・伊孑志・小浜を巡見・通過して米谷村に至った。この村で休息し一汁一菜、香の物つきの昼食をとった。それにそなえて米谷村は巡見使三人が休息する本陣三軒を用意した。この本陣となる家については座敷の畳がえ、畳の裏返し、床の間の壁やふすまのはりかえ、便所その他の修繕などをすべて村の人足・費用でおこなってこの日を迎えた。
巡見使は米谷村で休んだ後、川面・安場村を巡見しながら生瀬・舟坂を経て湯山に至った。米谷から舟坂までは米谷・川面・安場村などが共同で人馬・駕籠(かご)を負担しこれを送った。巡見使はそのあと三田に泊り、そこから池田に至っているから、二十三日には市域北部を通過したと思われる。私領巡見使おきまりの順路で来て通過したわけである。
米谷村だけでも、道・橋の修繕や本陣の造作、巡見使を湯山へ送る人足などを合わせると、この巡見のために人足延べ七四八人、入用銀一貫九七一匁八分を費やした。