つぎに一一代将軍家斉(いえなり)の時代の御料巡見使・私領巡見使はともに天明八年(一七八八)六月に市域を通過している。
畿内・丹波・播磨・近江を巡見する御料巡見使遠藤良恭・松原八左衛門・三宅権七郎は六月一日池田村に泊り、二日に巡礼街道を中山寺に至って昼の休みをとり、米谷・川面を経て湯山に至って泊っている。この道筋の市域村々はいずれも私領であったため単なる通過にとどまった。
一方、私領巡見使松平忠朋・中根正房・山岡景満は六月十三日、宝暦と同じ巡路で西宮から米谷に来て泊っている。米谷村は予定では昼休みだけの場であったが、つぎに述べるような事情で予定がくるい、急にここで泊ることになってしまった。巡見まぢかの五月晦日(みそか)の大雨で武庫川の生瀬の橋が流れ、ついで直前の十一日から十二日にかけてまた大雨が降った。ために武庫川の水位があがり、巡見使は十三日西宮から米谷へ向かうのに、伊孑志の渡しでは、上瓦林村から借りてきた舟二そうでやっと渡っている。ところが生瀬の渡しの方は水位がさらに高いため、川越えができなくなってしまった。急に米谷で宿泊することになったのはそのためであった。
米谷村は宿泊・料理の用意をまったくしていなかったので大いに困ったが、有りあわせのお茶づけでよろしいとの指示でやっと接待することができた。にわかの宿泊とはいえ、このための費用はかさみ、銀四貫五三七匁三分七厘にのぼった。そのうえ他村の人足が急に村に泊ることになって、その混雑のなかでかごやふとんその他いろいろな品物が紛失し、その損害は五〇七匁三分五厘にのぼった。米谷村では領主片桐・保科両家に紛失物に対するお手当を頂戴(ちょうだい)したいと願いでている。それは下付されたようである。
巡見使が具体的に村々でどのように巡見したか、その模様については、宝暦・天明両度とも明らかにしえない。