いま上佐曽利村・下佐曽利村および山本村のうち丸橋・口谷について、享保以降寛政期までの本免を表示すると表67のようになる。この免の推移をみるとき、享保十七年(一七三二)の大飢饉(ききん)はとくにひどいものであったことは明白であるが、全体の傾向として、宝暦以降天明期に向かって免は低下し停滞している。慢性的不作の状態がつづき農業の順調な発展がみられないこと、増徴しようにも増徴できない状態となったことをあらわしているといえる。
表67 近世中期の免
年次 | 上佐曽利村 | 下佐曽利村 | 山本村のうち丸橋・口谷 |
---|---|---|---|
ツ | ツ | ツ | |
享保13(1728) | 5.53 | ||
16 | 5.53 | ||
17 | 2.22 | ||
18 | 5.522 | ||
19 | 5.522 | ||
元文1(1736) | 3.872 | ||
2 | 5.522 | ||
3 | 4.419 | ||
4 | 5.513 | ||
寛保3(1743) | 5.125 | 5.676 | |
宝暦10(1760) | 6.25 | ||
安永4(1775) | 5.517 | ||
6 | 5.986 | ||
7 | 6.369 | ||
8 | 6.41 | ||
9 | 6.246 | ||
天明1(1781) | 5.781 | ||
2 | 5.913 | ||
3 | 5.644 | ||
4 | 5.482 | 4.964 | |
5 | 5.501 | 4.532 | |
6 | 3.531 | ||
7 | 5.089 | 4.955 | |
8 | 4.36 | ||
寛政1(1789) | 4.435 | ||
2 | 4.871 | ||
3 | 4.912 | ||
4 | 6.481 | ||
5 | 6.378 | ||
6 | 6.213 | ||
7 | 6.411 |
〔注〕3ヵ村とも直領である
明和年間(一七六四~七一)は旱害つづきであった。とくに明和三年・五年・八年がひどかった。安場村明和八年九月の「稲作悪敷(あしき)分附上帳」をみると、旱魃で稲作の植付ができなかった田は四反九畝一八歩、高にして五石六斗二升あり、それに近い「稲作悪敷分」と報告されている田は四反二八歩、高四石三斗四升八合となっている。他の田畑も平年作というわけにはいかなかったであろう。領主忍藩阿部氏はこの報告にもとづいて、植付できなかった田の高全部と植付悪しき分については半額にあたる高二石二斗を引高として貢租の徴収を免除している。
市域については凶作・飢饉に関する史料はないが、市域周辺の史料によって明和~天明期にはひどい凶作がつづいたことが推察される。まず明和三年大鹿村(伊丹市)惣百姓中が村役人に訴えた訴状をみると、農民下層の日々の食事についてつぎのように叙述している。八十八夜から秋の収穫が終わるまでは、一日に一度は麦めしを食べたが、秋の収穫が終わってからの農閑期には一日三度の食事はいつもぬかだんごの塩ぞうすいで、麦めしは月に一日と十三日の二度だけである。村役人は年貢の上納ばかりをたいせつにして貧農たちに対するすこしの思いやりもない。領主への勤めも大事だがすこしは下百姓の生活が成り立つように思いやりをかけてもらいたい、というものであった。
つぎにまた天明三年(一七八三)は異常に寒冷な年であった。冬はまずまずあたたかであったが、四月八日ごろから気候は急に冬にもどり、人々は綿入れを着こみこたつに入るありさまであった。五月もまだ冬のようで、四月に咲きそこなった花が六月から八月にかけて咲き、麦は霜でくさり稲も八月二十日すぎてようやく穂がではじめる状態で冬作も夏作も大凶作となった。
この天明三年の大凶作に伴って起きた小浜騒動についてはつぎに述べるとして、作がらは天明四年・五年はまずまずであったが、天明六年にはまたまた大不作となっている。多田院社領三ヵ村(多田院・新田・東多田村、以上川西市)についての記録をみると、この年気候は不順で、そのうえ八月二十九日に大風が吹いて稲作は凶作となった。ほぼ三、四分のできで、綿作にいたっては「一切皆無」となっている。このため米価は高騰し、翌七年の正月から四月にかけては一石が銀一〇〇匁から一二〇匁となっている。加えてその年の麦作は半作以下であったので、四月から六月にかけては二〇〇匁にも高騰し、小売値段は二二〇匁から二三〇匁にも達したという。表67の免をみても、天明六年は享保十七年の大飢饉ほどではないにしてもかなりひどい凶作であったことが推察される。