さて天明三年の大凶作のあと、翌四年三月小浜・米谷村に「小浜騒動」といわれる打ちこわしが起きている。小浜は宿駅のある在郷町であり、米谷はその町つづきである。ここには、丹波や有馬郡方面から送られてくる米穀類を取り扱う商人が多く、彼らの手で米は伊丹・池田へ、あるいは西宮から江戸へ送られていた。
天明三年の大凶作で秋から翌四年にかけて農民は食料に困っていたが、小浜・米谷の米商人たちは米を安く売ってくれるようにと農民が頼んでも、江戸回しの方がもうかるというわけで、そちらへ米を回してしまう。地もとの農民に売る場合も、四年三月当時の米相場が一石銀百五、六匁のところ一升一二七文で売った。これを石になおすと、銀一二〇匁余に相当する高値である。というわけで、憤った近郷の農民たち数百人がついに三月二十一日四つ時(午前九時半ごろ)武庫川原に集まって相談を始めた。このことが領主に聞こえ午後になって役人がはせつけたが、そのときにはすでに農民たちは退散してしまっていた。このため役人も引き揚げた。
ところが暮六つ(午後五時半ごろ)を過ぎると、どこからともなく農民たちが五、六百人も集まってきた。彼らは小浜・米谷の米商人たちの家へ押し寄せ、打ちこわしをかける行動にでた。家財・衣類・建具などはのこらず打ちこわし、穀物の類は俵を切りさいて大道や水路にまきちらして退散した。
このとき打ちこわしをうけたのは、小浜村では米商売の今津屋善吉・綛屋(かせや)治右衛門・米屋平助・油屋仁兵衛、茶屋の升屋宗七と百姓の道具屋藤七の六軒であった。道具屋藤七は米商売とは関係はなかったが、今津屋善吉の道具を預かっていたため打ちこわしにあった。また米谷村では米商売の綿屋藤七および米屋忠蔵とその隠居の家、その出店である質商売の米屋丈助の家が打ちこわしをうけた。大阪町奉行所は打ちこわされたものたちを呼んで取り調べたが、だれが打ちこわしたかわからなかった。おそらく事件は未解決のままとなったと思われる。
この打ちこわしは、浜松歌国の『摂陽奇観』にしるすところである。