一七世紀後期小浜・中筋・山本村に江戸積酒造業が展開し、なかでも中筋村の小池治右衛門は巨大であった。そのほか江戸積するほどではなかったが、街道筋での需要に応ずる酒造家が小林・鹿塩・川面・米谷村などにみられた(四五三ページ参照)。この市域の酒造業はやがて一八世紀には、天明(一七八一~八八)のころ結成された摂泉十二郷の江戸積酒造仲間のうちの一郷、北在郷に属して展開する。
摂泉十二郷というのは大阪三郷・伝法・北在・池田・伊丹・尼崎・西宮・今津・上灘・下灘・兵庫(以上摂津)・堺(和泉)という一二の江戸積銘醸地をいう。このうち北在郷だけは他の郷のように特定の町や小地域をさす名称ではなく、東は富田・福井・茨木から西は三田・道場河原・有馬まで北摂一帯にひろがった銘醸地を包括してよんでいる名称である。
摂泉十二郷のうち今津・上灘・下灘郷は一八世紀に入って登場してくる江戸積銘醸地であるが、この新しい酒造地帯は古い銘醸地の酒造株を買い取って成立してくるのであり、さしずめ北在郷は江戸積の立地条件に恵まれないこともあって、これら新銘醸地へと酒造株を売り放すことがもっとも多かった。このため一八世紀には、北在郷は発展どころか、むしろ衰退傾向にあった地域といってよい。
北在郷の酒造家は、享和三年(一八〇三)には一六ヵ村に三二軒あった。その酒造株は三四と御欠所株一一、酒造石高は合計二万九八一一石一斗九升であった。また天保三年(一八三二)には二二ヵ村に三〇軒、酒造石高二万三六二石余であった。