では、この北在郷に属した市域村々には、どの程度酒造業の展開がみられたのであろうか。小浜村にしても、『灘酒沿革誌』が「小浜ハ其ノ事蹟伝ハラス、然モ世ニ其ノ醸法ヲ伝へ小浜流卜称スルニ至レリ、蓋(けだ)シ皆一時昌盛ヲ致セシナラム」といっているように、かつては(おそらく一七世紀)小浜流といわれる醸法があったと伝えられ盛大であったことが推測されるが、今日その醸法なり盛大の模様なりを確かめることはできない。他の村々の酒造業も同様で、わずかに断片的な史料でその様子をたどり得るだけである。
寛政九年(一七九七)「摂州北在組酒造家廿四人惣代」がだした一通の文書がある。二四人というのは北在郷の全酒造家の数ではなく、そのうちの川辺・有馬郡地区の酒造家と考えられるが、二四人の惣代は中筋村の小池治右衛門と川面村の糀屋(こうじや)市左衛門であった。文書の内容は酒の津出しに関する口銭の問題である。西部北在郷の酒造家は従来から酒を西宮へだし、そこから江戸積してきたが、この年の閏七月に西宮が西宮出し酒荷物に一駄について五厘の口銭を取りはじめた。そのため北在郷の酒造家たちが西宮の庄屋・年寄・岡荷物引請問屋を相手取って口銭差止めの訴訟を起こした。西宮の庄屋・年寄・駅年寄はこの口銭は昔から取っていると主張したが、町奉行所はそのような先例はないとして口銭を取ることを禁じている。文書の内容はざっとこのようなことであるが、市域からも江戸積がおこなわれていること、一七世紀からの巨大な酒造家小池が寛政期にも酒造をつづけていたことが知られる。
市域の酒造業全体の様子はまず享和三年について知られる。当時安場村に一軒・酒造株石高三〇〇石(一株)、小浜村に二軒・八〇〇石(二株)と領主貸付株が一軒・一五〇石、中筋村に二軒・八七〇石(三株)であった。また寛政末~文化初年(一九世紀初頭)のころのものと思われる「摂州酒樽薦銘鑑(さかだるこもめいかん)」にはつぎの五人の名がみえる。川面村麹屋(こうじや)市右衛門・安場村岡田屋儀兵衛・小浜村米屋平助・九城屋休兵衛・中筋村三木屋彦兵衛である。中筋村の小池の名がみえないのはどうしたわけであろうか。
なお断片的な文書から市域の酒造株を拾うと、つぎのことが知られる。川面村の伝右衛門が天明七年(一七八七)まで酒造業を営んでおり、同年酒造株を武庫郡西宮町乙馬屋庄右衛門に譲り渡したこと、川面村市左衛門は天明五年まで酒造業を営み、この年から享和二年まで休んでいたが、享和二年に酒造株を豊島郡神田(こうだ)村のものに譲り渡したこと、川面村儀右衛門が弘化三年(一八四六)に生瀬村治作に、同四年に村内又次郎に酒造株を譲り渡したこと、安場村五郎右衛門が安永二年(一七七三)今津村の貞太郎の酒造株を借りて西宮で酒造を営んだこと、安場村善兵衛が慶応元年(一八六五)酒造株(三株酒造米高五〇〇石)を豊島郡内田村のものに譲り渡したこと、また天保十一年(一八四〇)に安倉村岩次郎が新田中野村の酒造家に杜氏(とうじ)として稼(かせぎ)に出ていたことなどが知られる。これらの事実によって一八世紀には川面・安場・小浜・中筋村に北在郷を構成する酒造業が展開していたことがわかる。かつては江戸積と関係なく街道筋の需要に応ずる程度にすぎなかった川面・安場などにおける酒造業も江戸積に参加するようになったのであろうか。
さらに付言するならば、酒造株をもたない無株のものの酒造が川面村で摘発された。酒小売商の兵左衛門・為治郎の二人が寛政四年酒を密造していたことが摘発されたのである。為治郎は入牢を命じられ、のち「大坂三郷并びに所払い」となって村を追われた。以後彼は小浜に移って米商売を営んだといわれる。彼が酒造から米商売に転じたことに、はしなくも酒造業と米商売との結びつきがうかがわれておもしろい。