さて正徳元年(一七一一)駅法の改正がおこなわれ、小浜は、東は瀬川・伊丹まで、西は生瀬(有馬方面行の場合)および青野道を通って道場河原までを継ぎ立てる宿駅となった(四〇二ページ参照)。
ところで小浜にとっても生瀬にとっても最も重要なのは奥筋からの荷物である。この奥筋からの荷物は、伊丹・尼崎・瀬川方面へと送るものは道場河原から青野道を通って小浜駅が継ぎ立て、西宮送りのものは猿甲部道を通って生瀬駅が継ぎ立てることに駅法で定められていた(ほかに生瀬駅は有馬から小浜への継立てもおこなった)。だから小浜・生瀬両駅の継立ての分担ははっきりしていて、いちおう問題はなかったが、問題は旅人・商人がどちらの道を通行するかである。旅人や商人が青野道を通るか猿甲部道を通るかはと
くに生瀬のにぎわいに大いに影響する。そのため青野道・猿甲部道がともに生瀬村地内を通る道であることをよいことにして、ややもすれば生瀬は自村に都合のよいようにことを運びがちであった。
宝永二年(一七〇五)生瀬は木元と生瀬を結ぶ新しい道筋として、これまでのけわしい猿甲部道に代わる平坦な新猿甲部道を開通させた。このとき以来、人々はしだいに新猿甲部道を通るようになって、今まで優位を保っていた青野道の地位は動揺しはじめた。ことに享保(一七一六~三五)をすぎたころから、つぎの事情が加わって青野道は目に見えて隆盛を新猿甲部道に奪われていく。享保年中までは青野道はよい道であったが、その後生瀬が自駅の繁栄をはかるために青野道の普請を怠り、これを人為的に荒廃させてしまったのである。
こうして青野道が荒廃するにつれて、生瀬が望むとおり新猿甲部道の往来は盛んとなり、旅人・商人は多く生瀬を通過するようになった。そして宝暦以後ともなると、本来道場河原から生瀬駅を通らずに青野道を小浜へと継がれるはずの荷物も、もっぱら新猿甲部道から生瀬へと通るようになった。もちろん、たといそうなっても、駅法の定めるところに従って、道場河原から伊丹・尼崎あるいは瀬川方面へ運ばれる荷物は、生瀬で継ぎ立てずに小浜まで付け通すことができた。しかし小浜にとっては、青野道の通行ができず生瀬駅前を通過することはなにかと気づまりなことであった。そこで小浜はなんとかして青野道の通行を再開して、生瀬に拘束されることなしに荷物を継ぎ立てたいと考えるようになった。この青野道再開をめぐる争論が小浜と生瀬との間に寛政十三年(享和元年・一八〇一)に起きるが、そのことについて述べるまえに、道場河原方面からの荷物がもっぱら新猿甲部道を通るようになった時期に起きた両駅の争論についてふれておきたい。