西宮送り酒荷物継立争論

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 道場河原から生瀬を素通りして小浜継ぎになる伊丹・尼崎・瀬川方面送りの荷物が宝暦ごろから新猿甲部道を通るようになると、以前のように青野道ー小浜継ぎと、新猿甲部道ー生瀬継ぎと、道が二筋に分かれていたときよりも荷物の継立てに関する紛争が目立ってくるのは自然であった。
 安永二年(一七七三)二月名塩村の弓場長兵衛が江戸送りの酒を小浜継ぎで西宮へ送っているとして、生瀬から摘発され訴えられている。さっそく名塩村の庄屋・年寄が、長兵衛は宿駅のおきてを知らずにしたことなので、これを許し、訴訟を内済にしてもらいたいと生瀬に申し入れた。生瀬もこれを認め内済となっている。
 ところがその後、小浜の庄屋・年寄・馬借中がこの問題をとりあげ、生瀬村の出訴は不法であるとしてその村の領主松平右京大夫輝高に訴えている。小浜の言い分はこうである。小浜は道場河原方面からの荷物のうち西宮送りのものを生瀬駅が継ぎ立てることになんら支障を申し立てるものではない。しかし長兵衛の場合は、従来から小浜駅へ酒荷物をだしており、小浜の問屋の手で池田・伊丹・大阪での酒値段を聞き合わせ、値段のよいところへ売り払うようにしてきた。ただし、ときには池田・伊丹・大阪売りでは値段が引き合わないことがあり、そのときには、江戸へ送るために西宮出しにすることもあった。要するに長兵衛の酒荷物はこれまで小浜の問屋が引き受けてきたところで、たまたま西宮へ送ることになった荷物について、小浜へ断わりもなく生瀬が無法に差し押えるのはもってのほかの致し方である。また駅法も知らない長兵衛を訴えるのは納得できない。差し押えた荷物五駄を早く返すよう生瀬村に命じられたいというものであった。
 この訴えに、松平右京大夫役所は生瀬村を呼びだして取り調べた。生瀬村は屈せず、西宮送り荷物は生瀬が継ぎ立てるきまりであるから、小浜がわがままに西宮送り荷物を継ぎ立てないよう命じられたいと答えた。
 この争論がどうおさまったかは明らかでないが、翌安永三年にもまた名塩村の孫右衛門が酒荷物を七、八〇駄も小浜継ぎで今津へだしたことが生瀬から訴えられた。このときは、今後そのようなことがないようにするとの一札を入れて内済となっている。
 

写真194 小浜にある西宮道の道標


 
 ところが翌四年にも生瀬村は道場河原の駅役人を相手どって訴えを起こしている。本来生瀬継ぎにすべき西宮送り酒荷物を道場河原が大部分小浜継ぎにしている。道場河原は、小浜へなりと生瀬へなりと勝手よろしい方へ送るのだというが、それは駅法にそむくものである。今後は西宮送り荷物を小浜継ぎにしないように仰せつけられたいというものであった。
 このときも、今後は西宮送り荷物は生瀬継ぎにすること、ただし大水がでたり人や牛馬に差支えが生じたときには、生瀬に連絡したうえ小浜継ぎにすることができるという一札を入れて和談が成立している。このようにして小浜と生瀬の間に酒荷物をめぐる争論が継起している、同じ道をふたつの宿駅が継ぎ立てることからくる紛争であった。