こうしてなにかと生瀬駅から拘束されることが多くなって、小浜はなんとかもとどおり青野道の通行を再開して生瀬駅前を通らずに荷物を継ぎ立てたいと考えるようになった。この小浜の願望はたまたま寛政十二年(一八〇〇)に起きた名塩村と生瀬駅との間の争論を契機に達成されていく。
この年名塩村は京都から名塩村教行寺へ蓮如の画像を迎えるため、先例に従って青野道を通りたいから青野道を普請してくれるよう、生瀬村へ申し入れた。これには画像の通過を突破口として青野道の通行を再開しようとする意図が含まれていたと考えられる。生瀬の方でもこれを予想し、青野道は街道でなく野道であるからという理由で道普請を断わった。そこで青野道が街道か野道かということが問題になった。
このときの生瀬の主張はつぎのとおりである。
1 青野道は元禄十二年(一六九九)から宝永二年(一七〇五)まで、すなわち青野道が街道と決まった年から猿甲部道が街道と決まり新猿甲部道が開通したときまでは街道であった。しかしそれ以後は街道でない。
2 高札は生瀬駅にある。高札の前を通るのが街道で、高札もない青野道は街道でない。
3 新猿甲部道という街道があるのだから裏道を通る要もないし、普請する要もない。
すでにみたように正徳の駅法改正後も青野道は街道と指定されているから街道に違いない。ただ享保以後荒廃して街道としての実を失ったにすぎない。それを生瀬は、この百年来青野道はだれも通行していないなどと主張して、街道でないという証拠にしようとしているのである。
これに対して名塩はつぎのように主張した。
1 青野道は往古より街道であり、街道が取り消された事実もない。また猿甲部道だけが街道に定められた事実もない。
2 元禄元年の裁許により生瀬・名塩立会で青野道を普請するよう命じられているのであるから、普請しないのは不当である(三九七ページ参照)。
青野道が往古より街道であったという点は元禄十二年以来街道であった、と訂正すべきであるが、名塩の主張はほぼ正当である。奉行所も同意見であったが、生瀬は裏道を通すような、高札にそむくことは請けかねるとして普請に応じなかった。
生瀬と名塩の争論がまだ解決しないうちに享和元年(一八〇一)画像通過の日が近づいた。このため名塩はついにみずからの手で青野道を普請する強行手段にでている。結局名塩は他村に入り込んでこんなことをしたのは不届きであるとして大いにしかられたが、結果は、旅人・牛馬が大半青野道を通るようになり、生瀬はかなり影響を受けることになったといえる。
さてこの事件が解決しないうちに、同年こんどは小浜・道場河原から生瀬を相手取る青野道争論が起きた。青野道普請の問題から起きたらしい。双方の主張はさきの生瀬と名塩の争論の場合とほとんど変わらない。結局四年後の文化二年(一八〇五)生瀬は「青野道がよくなれば村としても都合がよいので普請することにしよう。旅人・牛馬の青野道通過についても差構いはいうまい」と一歩譲歩した。ただしこのときも青野道は野道だという主張を固執したので、翌年生瀬は奉行所からつぎのような質問をうけた。すなわち生瀬は青野道を野道だというがその証拠があるか、青野道が街道の指定を取り消された証拠があるか、道場河原ー小浜間を継ぎ立てるのにもっぱら新猿甲部道を通らねばならぬ証拠があるか、を問われた。生瀬はその証拠をしめしえなかった。
しかし結局青野道が街道か野道かは決めずに、前年の生瀬の譲歩案の線で話がついた。ここに青野道問題は解決し、青野道は再開された。