以上道場河原方面からだされてくる荷物の継立てをめぐって小浜・生瀬両駅が争ったことについて述べたが、それとならんで宿駅の牛馬でない、いわゆる百姓の手馬・手牛で荷物を付け通す行為がしばしば問題となっている。
たとえば宝暦八年(一七五八)川面村次郎右衛門が村内の牛持ち三人をもって、米一駄(二俵)と菜種二駄(四俵)を池田へ送っていたところ、小浜駅のものが中山寺でこれを差し押え訴えでている。小浜の訴状はつぎのように訴える。次郎右衛門は奥筋から米や菜種を買い集め、それを百姓の手牛に付けて、小浜駅を通らず脇道を池田村へと抜け通った。これは小浜駅の役馬・問屋の仕事を減じさせ宿駅を退転させるものであると訴えているのである。
しかし川面村にいわせると、この米や菜種は奥筋から買い集めたものではなく、村内で収穫したものである。数人が収穫したものをいっしょにして俵にしたもので、百姓荷物である。そして次郎右衛門の口入で中筋村新兵衛に売り、すでに代銀は受け取っている。それを村内の牛で運んでいたところ中山寺で小浜のものに荷物を切り落とされてしまった。こんなことをされては年貢の納入にひびき、また干鰯代・飯米代の手当にもこと欠くことになって迷惑である。また運んだ牛は一匹を三、四人で相合持ちしているもので、駄賃稼の牛では決してない。どうか小浜が差し押えた米・菜種を返してもらいたい。また農民が作ったものを運ぶについては駅所で口銭を取らないようにしてもらいたい。こう願っている。
この訴訟の場合、運んだ米・菜種はおそらく百姓荷物であったと思われるが、つぎの事例は商人荷物をめぐる紛争である。
宝暦十一年有馬郡母子山の忠兵衛が西宮の樽屋へ送る樽材を伊孑志村八右衛門の牛で送ったことが生瀬によって摘発されている。西宮へ送る営業荷物は生瀬駅所が継ぎ立てるべきであるのに駅所外のものが継ぎ立てたので、生瀬で差し押えられたのである。そこで忠兵衛と八右衛門は、こんどは手を変えて、三田藩母子山会所の絵符(荷札)をつけて荷物を運ぼうとした。名目的にもせよ三田藩の名がつくと、生瀬駅もうかつには手がだせない。そこで生瀬は三田町の年寄中にあてて善処方を申し入れている。
生瀬がこの事件を訴訟にまで持ち込まず、たんに三田町の年寄中に申し入れるにとどめたのにはつぎの事情があった。申し入れ書をみると、生瀬は、たとい御会所の荷物であろうと、宿駅でない村の牛で運ぶことは宿駅の高札すなわち幕令にふれることであり、生瀬駅の一存でみのがせるものではない、といっている。しかしそういいながらも一方で、「近年は殿様(三田藩)御米多分御出し下され」生瀬の馬借はいうにおよばず村中のものがありがたく存じている、といっている。この文面からみると、訴訟などおこして三田藩の怒りをかうと、今後大量の三田藩の米を継ぎ立てできないようになる。これをおそれて生瀬は訴訟に持ち込まなかったものと考えられる。そしてただ三田町の年寄中にあてて、このような荷物は生瀬継ぎに願いたいと願うにとどまったのであった。
この事件はその後どう処理されたかは明らかでないが、ともかく伊孑志村のものが法をおかして商人荷物の輸送に従い、荷物を五駄も差し押えられながら、なおも名目をつけて荷物を送ろうとしていたことが知られる。このことからみて、八右衛門は前から手牛での商人荷物の駄賃稼にたずさわっていたのではないかと推察される。
以上農民の手牛で荷物を運んだために駅所に訴えられた事例をあげたが、このような紛争の事例はもちろん一、二にとどまらない。時代が下がればいっそう多発するのであり、それだけ手牛による農民荷物の輸送が盛んになったこと、つまり農民的商品流通が発展したことをうかがわせるものである。