ところで、このような紛争が起きたことにもあらわれているように、駅法が正徳年間に整備されて以来、旅人や商人荷物が勝手道(街道以外の道)を通ることが禁じられ、荷物の継立てによる駄賃稼は宿駅の牛馬に限られることになった。その結果、今まで自由であった農民の手馬・手牛すなわち在馬による商人荷物の輸送、それによる駄賃稼は、駅所の利益をおびやかすものとして取り締まられるようになった。
しかし西摂・北摂地方の宿駅の実情をみるとき、近世初期以来農民の駄賃稼が宿駅業務と結びついて発展してきた面があり、正徳以降もかならずしも駅所の営業上、在馬による駄賃稼を完全には否定しきれない事情があったことが注目される。たとえば小浜駅の場合、宿立て人馬二五人・二五匹の駅所でありながら、駅所が常時かかえている馬は近世初期以来つねにわずかに一、二匹にすぎない。そのため多数の馬で継立てしなければならないときには、小浜はいつも米谷・安倉・伊孑志・川面・鴻池など近隣村々の在馬の助けをかり、それを使って宿駅業務をつとめる状態であった(三二六ページ参照)。このため正徳以後も駅所に近い村々の牛馬を「助役牛(すけやくうし)」に指定し、駅馬の不足を補うものとして必要なときに駅馬に代わって公用の継立てにあたらせる。その代わりにこの助役牛には、それ以外の牛には認めない駄賃稼を平常時に認める措置をとらざるをえなかった。これがいわゆる札牛の制である。
札牛についてもう少し説明を加えると、初期の形態はわからないが、文政ごろの史料ではつぎのようであった。年に銭二〇〇文(駅馬飼養助成金)を駅所に納めたものに馬除札を下付し、御用の駅馬が不足する場合助役牛として継立てにあたらせる。その代わり助成として彼らに近村の農民・商人の荷物の駄賃稼を許すという方法である。そしてこの馬除札をもつ牛すなわち札牛は農民・商人荷物を運ぶさい当該駅所を付け通すことを認められ、その駅所に打越口銭として一駄につき八文(薪は四文)をおさめる定めであった。もっとも一駅の札牛が他駅を付け通すことは認められなかった。この札牛の方法は小浜のほか生瀬・西宮・昆陽・伊丹・池田・尼崎など近隣の宿駅でも実施された。
生瀬村文政九年(一八二六)の史料に小浜駅の先の駅役人が駅法を仕くずし札牛の制度をつくったという意味の記述があるから、小浜駅あたりがこの制度をはじめたものと考えられる。ただこの札牛の制度がいつごろからおこなわれたかはよくわからないが、諸史料から推して、おそらく延享(一七四四~四七)ごろに成立したのではないかと思われる。
小浜指定の札牛がいくらほどいたかはわからない。池田の札牛は安永九年(一七八〇)に一〇一匹を数えるから、小浜の札牛もかなりの数にのぼったのであろうか。