街道筋在郷商人の一例

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 以上主として小浜と生瀬の宿駅争論を中心に述べてきた。おそらくその叙述のなかから商品流通に関してはつぎのようなことが推察できるであろう。街道を通って奥筋から米その他の雑穀や酒荷物が付け出されていたこと、街道筋には江戸積酒造業が展開し、米・雑穀・薪を扱う在郷商人の族生がみられたこと、そして村々で農民が生産した米・綿・菜種などの農産物や薪も在郷商人の手で駅馬・札牛を使って付け出されたであろうこと、などである。
 こうして一八世紀後期には商品流通の進展がみられたが、ここでやや具体的に在郷商人の活動がわかる例として、米谷村の米・薪の仲買商人塩田屋佐兵衛の場合をみてみよう。彼は文化十三年(一八一六)小浜の駅所から、駅所の問屋にまがうような駄賃稼をしたとして訴えられた。彼が百姓の手牛を雇って荷主の米・薪を伊丹方面へと送っていると訴えられたのである。小浜駅が奉行所に提出した「当駅ヲ附破候牛方顔付帳」によると、文化十三年に塩田屋は三ヵ月余の間につぎのような活動をしていることがわかる。
 八月五日から十一月二十二日までの一〇六日間に彼は四七日伊丹へと米・薪を送っている。それを合計すると、米が一五七石、薪が三一二太(だ)にのぼる。牛一匹で米なら一石、薪なら一太を付けるので、結局四七日間に四六九匹の牛を雇って米・薪を運んだ計算になる。送り先は、鴻池村(伊丹市)新右衛門のところへ薪を二太運んだ以外はすべて伊丹の米屋・薪屋・酒造家であった。
 彼のような在郷商人が仲買商人として都市・在郷町へと農民的商品なり街道付送り荷物を送り出していたわけである。