寛保期の肥料の高騰と訴願

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 商品生産・商品流通の進展とともに、農民が売りだす商品作物ないしは農民が買い入れる肥料をめぐって農民と商人の間に対立関係が生じた。ことに一八世紀後期封建的流通機構=株仲間組織が整備されるにつれて、農民は流通面から生産を圧迫されることが多くなり、ために株仲間商人とその背後にある幕府の流通統制に対して、先進地域の農民はいわゆる国訴闘争(国的規模の陳情闘争)を展開するようになっていく。
 まず農業生産への圧迫として肥料の高騰が問題となった。享保年間(一七一六~三五)以後干鰯漁場の全国的不漁と、紀伊・和泉・播磨や兵庫方面に地方干鰯屋が出現したことによって、大阪への干鰯の回着量が減少した。この事情が大阪干鰯屋の内紛を誘発して干鰯はいよいよ高騰した。宝塚地方では、肥料として干鰯が多く施用されていたが、近隣に酒造地帯の発展があった関係上、酒・焼酎の絞り粕である干粕(ひかす)も多く用いられていた。その干粕も大阪干鰯の高騰とともに値上がりした。このため寛保三年(一七四三)六月ごろから八月にかけて、肥料の高騰を訴える訴願が相ついでいる。七月五日には川辺郡一四ヵ村が訴状を提出しているが、この一四ヵ村は市域の平井村を含み川西市域南部から伊丹市北部にかけての村々であった。ここは盛んな綿作地帯で干鰯・干粕の施用が多かったために、とくに肥料高騰の影響を大きく受け、訴願となったわけである。
 一四ヵ村はつぎのように訴えている。近年干鰯が高騰し、先年は一駄が銀三五、六匁から四〇匁ぐらいであったのに、いまは百五、六〇匁になっている。当地方では田の肥料の六、七割は干粕を用いているが、干鰯の高騰とともに干粕が高騰し、以前は生粕一〇〇貫目(干して干粕五六貫目)が銀一四、五匁から二〇匁ぐらいであったのに、近年は六三、四匁に高騰してしまった。これは池田・伊丹で仲買のものが干粕を買い占め、また酒屋・焼酎(しょうちゅう)屋が農民に売らなくなったことに原因がある。農民は肥料が不足がちとなり農作がふできとなって迷惑している。どうか干鰯の他国売りを停止し干鰯その他の肥料が安値になるよう吟味されたい。このように訴えたのであった。
 この訴状のほかに、あるいは川辺・武庫郡二七ヵ村あるいは島上・島下郡八四ヵ村といった単位で摂津の各地から訴願が出された。そのため幕府はそれらの要求にこたえないわけにはいかなくなって、大阪の干鰯屋たちがふたつに分かれて商売していることについては、一体となって干鰯が安値になるよう努力すべきこと、油粕・焼酎粕の買占めがおこなわれている池田・伊丹・尼崎・西宮における買占めを禁止する旨を申し渡した。
 このときは、分裂していた大阪干鰯屋仲間が和解したため、ようやく価格も正常に復し、村々の訴願もいったん終息した。