その後も池田・伊丹・尼崎・西宮での干粕の買占め行為は続いた。宝暦三年(一七五三)五月六日の川辺・豊島郡村々が出した訴状でも、この地方の「富家之者とも」「外商売の家」が油粕や干粕などを取り扱い買い占めることの差止めを願っているが、肥料は寛保三年のあと、天明八年(一七八八)・寛政六年(一七九四)・天保六年(一八三五)にとくに激しく高騰した。
天明八年から寛政六年にかけては肥料の高値が続いたため、それをめぐる一連の訴願がみられる。いま市域村々が参加した訴願についてふれると、寛政二年四月五日の川辺・豊島郡八四ヵ村の訴願には安倉・小浜・中山寺・中筋・平井村が参加し、同年四月十一日の川辺・武庫・豊島郡五八ヵ村の訴願には惣代として中筋村年寄が名を連ねている。また寛政六年の川辺・武庫郡四四ヵ村の訴願には惣代として米谷村の佐右衛門が名を連ねている。訴願をおこなった市域の村々はいずれも南部の平野部の村々である。この地域は綿作・菜種作を中心とする商業的農業を展開している地域であり、それだけに肥料高騰の影響を大きくうけた。そのため上記のような訴願にも参加することになったものと考えられる。
さてこの三つの訴状ではいずれも干鰯・干粕の価格を元禄期(一六八八~一七〇三)・宝暦期(一七五一~六三)と比較している。干鰯は一駄が元禄期には二〇匁ないし二四、五匁、宝暦期には七〇匁ぐらいであったのに、当年には一〇〇匁ないし一五〇匁に高騰したとし、干粕は先年は五〇貫が米一石の値段の五割五分程度であったのに、いまは九割、一〇割にもあたり、米価と引き合わないと述べ、どうか肥料の値段が下がるよう考えていただきたいと請願している。
訴願は寛政六年四月二十一日のそれに至って摂津・河内二〇郡六五〇ヵ村の国訴にまで高揚するが、これに答えて幕府がつぎのように申し渡したことが転機となって、訴願の要求もようやく強さを増している。すなわち幕府は、諸国浦々の不漁が原因で干鰯が高騰するのは仕方がないとしても、不良品を売ったり干鰯の買い占めをやるものは差し押えて訴え出よ、きびしく取り調べる、との申し渡しであった。これを契機として、それ以後の訴願では、摂津・河内の農民の総代が、五、六人ずつ交代で大阪へ出向き、仲買仲間の不正を監視したいと願っている。そして訴願村々はこの制度を大阪のみならず北摂・西摂にも及ぼそうとして、六月の川辺・武庫・豊島郡九七ヵ村の訴状では、池田・伊丹・尼崎・西宮などで干粕を買い占める在郷商人がいれば、発見しだい訴えるようにしたいと願っている。農民はたんにばく然と肥料の値下げを願う段階をこえて、いよいよ農民による監視制度の実現、農民による流通管理を求めるまでに高揚したことが注目される。