菜種作の展開

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 肥料の高騰のほか、農業経営を大きく圧迫したものは株仲間による商品作物の買いたたき行為であった。ことに農民の生産した綿・菜種の販路を制限し、安く買いたたく行為がひどくなった一八世紀後期には、それに抗議して農民たちの訴願が激発し、やがてそれは国訴といわれる規模にまで高揚していく。
 

写真198 菜種の苗植え「広益国産考」(大阪府立中之島図書館所蔵)


 
 その最初の高揚は明和三年(一七六六)にみられた。この年幕府は、農民たちが手作りしたり絞り種(菜種など)を手絞りするのはよいとして、他人の絞り草を買い受けて絞ることを禁じる旨を申し渡した。換言すれば大阪以外のところで絞り油稼することを禁じ、種物はみな大阪へ回送せよというものであった。
 実はこの命令の主なねらいは、西摂の灘目に台頭していた水車絞り油屋の存在を否認するところにあった。一八世紀前期、西摂地方では、六甲山地から流れでる六甲川・住吉川・芦屋川をはじめ石屋・味泥(みどろ)・生田川などいわゆる灘目の河川に沿って、精米・絞り油のための水車の建設があいついだ。絞り油水車は瀬戸内海を東上してくる西国地方の種物を多量に買い入れうる立地条件を利用して建設されたわけであるが、これはとうぜん従来からあった大阪の人力絞り油屋(株仲間)の種物買入れを減少させ稼業を大きく圧迫することになった。このため大阪株仲間の保護をはかる幕府が、西摂の絞り油業を否認し大阪の独占を一挙に回復・強化しようとしてだしたのが、この明和三年令であったといえよう。
 この法令がでるまでは、西摂灘目の水車絞り油業は東上してくる他国の種物を大量に絞ることによって発展してきた。そしてこの西摂絞り油業の展開によって西摂地方の農業経営は大いに刺激され、他の地方に先んじて菜種作を盛大に展開した。明和期にはすでに「武庫郡在々の儀ハ喰物(くいもの)入用之外冬分ハ大方菜種作仕来候」(明和三年の訴状)というありさまとなっている。市域南部の村々は大体が綿作の盛んなところで、武庫川下流域(西宮・尼崎市)のように菜種作が盛んであったとはいえない。しかしそれでも灘目絞り油業の展開に刺激されてかなりの菜種作がみられるようになった。元文三年(一七三八)にはまだ耕地面積の一・六%にあたる九反八畝三歩にしか菜種を作っていなかった川面村で、寛政九年(一七九七)に七町五反九畝の菜種作をおこなうにいたっている例でも、それ相応に発展したことが察せられよう。
 もっとも、市域村々の菜種作の状況を具体的に知らせる史料は少ない。しかし以下に述べる菜種に関する訴願に、市域南部のうちでも武庫川沿いの村々が参加していることが多い点から考えて、菜種作は川面・小浜・見佐・伊孑志から小林・蔵人・鹿塩村にかけての地域において、かなり盛んになったものと推察される。