菜種作農民の明和の訴願

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 ところが、以上のように西摂地方で菜種作の展開が進んだ一八世紀後期になって、在々の絞り油屋を禁止する明和三年令がでたわけであるから、西摂地方の菜種作農民はいち早く抗議に立ち上がった。
 明和三年五月武庫郡五五ヵ村から最初の訴願がだされたが、それには川面・見佐・伊孑志・蔵人の四村も名を連ねていた。また月日不明の同年の武庫郡村々の訴状には小林・鹿塩村が名を連ねていた。ふたつの訴状のうち五五ヵ村の訴願では、農民たちはつぎのように抗議している。
 

写真199 水車で種子を粉にする図「製油録」(神戸大学図書館教養部分館所蔵)


 
 大阪へ菜種を売っては在々の絞り油屋に売るよりは安値になる。在々の絞り油屋が禁止されては菜種が売れない。これはやがて菜種作が減少し灯油が高騰する原因となる。わずか数斗・数石の菜種をめいめいが大阪へ送ることは迷惑である。大阪へ売るとなると運賃がかかるほか代銀の入手が遅くなり、米作・綿作の肥料代に支障をきたす。こういった点をあげて在々の菜種販売の自由の復活を求めたのであった。
 このときは灘目の絞り油屋からの強い抗議もあって、明和七年になって幕府は摂津・河内・和泉在々で絞り油業を営むことを認めた。ここに全面的な復活ではないが、株仲間に加入しさえすれば在々で絞り油稼をすることが認められることになった。この明和七年令によって農民は、今まで大阪の絞り油屋にしか売れなかったものが、ふたたび在々絞り油屋にも菜種を売ることができるようになって、農民の菜種販売の自由は回復された。しかしこれで完全に販売の自由が得られたというわけではない。絞り油屋以外の、干鰯屋や油粕屋などに適宜自由に菜種を販売することは依然認められていなかったのである。否そればかりか、寛政九年四月にはあらためてきびしい統制が農民の菜種の販売に加えられるのであって、農民は販売の自由を求めて、その後もさらに訴願をくりかえすことを余儀なくされていく。