寛政九年(一七九七)四月幕府は農民に対して、種物を仲買や干鰯屋に売ったり質入れすることを禁じ、すべて絞り油屋へのみ売るよう、そして油は大阪油仲買から買い取って小売するよう命じ、在々のものが油を直小売(在々絞り油屋から油を直買し小売すること)することはできないと触れた。さらに、今後は年々菜種の作高・出来高・販売高・販売先を村ごとに報告するよう命じた。今までも種物を絞り油屋以外に売ることは許されていなかったが、寛政九年令は、農民が種物の脇売り・質入れをしないように農民自身に向かって申し渡したものであり、また絞り油屋(株仲間)による種物の直買↓絞った油の大阪出油屋送り↓販売元大阪油仲買からの油買入れ、在々での小売、というきびしい流通機構を確立しようとはかったものである。絞り油屋を統制して間接的に農民の流通を規制するのでなく、菜種作農民に対して直接的に統制を加えるにいたった点で注目されるところである。
このような統制の強化に対して、寛政九年十月いち早く川辺・武庫・豊島郡村々から訴願がだされている。この訴状が小浜村に残されているところからみて、訴願に小浜村をはじめ市域村々が参加していたことが推測されるが、この「村々百姓難渋御願」にはつぎのように述べている。綿の販売についてもふれているが(五二二ページ参照)、ここでは菜種に関してだけ述べてみよう。菜種は表作の肥料調達のために使い、あるいは年貢・諸役を納める資とするものである。菜種をおいてほかに肥料先買の引当てにしうる作物はない。だからなんとか菜種は干鰯屋に引当てとしてだしたり、あるいは農民が食いつなぎのために米を買う引当てに使うことを許してもらいたい。つまり絞り油屋以外へも売れるようにしてもらいたい。また油は大阪から買うとなると、問屋・仲買の口銭や運賃などがかかり、油値段に加算されるので、在々の絞り油屋で絞った油を直買できるようにしてもらいたい。こう願っているのである。
このような内容の願いは翌寛政十年二月十三日と同十九日の両度にわたる川辺・武庫・豊島郡三四ヵ村の訴願でもなされている。この三四ヵ村は惣代村々の名からみて長尾山に近い村々であるが、中筋村が惣代として名を連ねており、かつこの訴状が川面村や新田中野村(伊丹市)に残っているところからみて、市域の村々がかなり参加していたことが推測される。この長尾山に近い村々には絞り油屋が少なく、絞り油屋の多い灘目や西宮から菜種を買いにくるにはやや不便なところである。そのためこの訴願では、村々組合で日雇売り子を雇って絞り油屋へ売りさばくようにしたいと願っているのである。菜種を干鰯屋売りしたり引当てにして借金することを認められたいと願ったことはもちろんである。