宝暦十年(一七六〇)には大阪・堺繰綿延売買会所の設立を、安永元年(一七七二)には大阪三所綿市問屋・綿屋仲間の株立てを、同三年には平野郷繰綿延売買会所の設立を認めるなど、中央市場における田沼時代の流通政策はかならずしも農民にとって好ましい方向をたどったものではなかった。そしてこのような動向のなかで、市域と関係の深い池田においても、安永八年池田村本町大和屋次右衛門借家に住む清兵衛が実綿市場の開設と繰綿延売買の許可を願いでてくる。繰綿一本(四〇斤、ただし一斤は三〇〇匁)について銀七分ずつの口銭を取って取引し、冥加銀として年々銀一五枚を幕府に上納したい。このような条件を申し出て池田で繰綿延売買をおこない、池田に出回る綿の一手掌握をはかろうとしたのであった(それとあい前後して、綿屋長兵衛なるものが年に銀五〇枚を上納することを条件に、池田か伊丹に繰綿延売買会所を設立したいと願い出ている事実もある)。
さて清兵衛のこのような動きに対しては、まず池田村庄屋から反対がでた。清兵衛が申しでた冥加銀一五枚よりももっと多額の冥加銀を池田村繰屋仲間から上納するようにしてもよい。どうか清兵衛の願いを差し止めてもらいたいというものであった。
しかし農民にとっては、清兵衛の動きはもちろんのこと、池田村庄屋・繰屋仲間のこのような動きもけっして好ましいことではなかった。清兵衛であれ、繰屋仲間であれ、彼らが冥加銀を納めるとなると、とうぜん農民からの綿買入れ値段をたたいて下落させる恐れがでてくるからである。それを恐れて川辺・豊島郡一四ヵ村がさっそく同年五月愁訴をおこなっている。一四ヵ村というのは市域の安倉・中筋・平井村と滝山・萩原・出在家・小戸・小花・栄根・加茂(以上川西市)および新田中野(伊丹市)・神田(池田市)・瀬川・半町(箕面市)の村々であった。訴状はつぎのように述べている。
今までは実綿買商人が村々家別に訪れて競って直買したが、もし清兵衛の願いが許可されれば、農民は市場へもっていって市場のいうがままの値段で安く売らなければならなくなる。そのうえ市場が、荒れ地で作った綿を安く買い集め、名声の高い池田の最上綿のようにみせかけて売りだすこともあるから、声価が落ちていっそう値段が安くなる。だから清兵衛の願いならびに池田村庄屋の願いを差し止められたいと願ったものである。このような反対があったからであろう、清兵衛の願いは許可されなかった。
そこで清兵衛は安永十年新しい方法を提示して、あらためて綿市場の開設を願いでてくる。しかしこれまた川辺・豊島郡村々から支障を申し立てたため許可されなかった。だがその後天明三年(一七八三)清兵衛はさらに、池田村と同じ小堀数馬代官所支配の村々から仲買が買い集めた繰綿にかぎって市売買をしたい。もちろん他領のものでも繰綿を売りたいと希望してくれば、それとの取引を拒否しない。こう願って同年ようやく彼の願いは認められた。池田村ならびに一四ヵ村農民の訴願によって、ともかく清兵衛の池田繰綿市場一手掌握の企図をくだくことができたわけである。