国訴への道

522 ~ 524 / 602ページ
 こうして安永期には池田市場における綿取引の自由は確保されたが、やがて大阪三所綿市問屋株立て(安永元年)の影響が市域農民の綿取引にも及んでくる。三所綿市問屋は安永・天明期(一七七二~八八)にはまだ大阪市中と近接農村での取引に関して株仲間以外の者の綿の取引を排除する独占権をもつにすぎず、摂津・河内の在々で在郷商人や他国商人が綿を買いつけ、またそれを他国へ船積することについてなんらそれを規制する力をもつものではなかった。ところが寛政ごろから三所綿市問屋はようやく自己の株仲間としての独占権を摂・河在々にまで拡大主張するようになっている。すなわち大阪綿屋仲間や在郷商人・他国商人が摂・河在々で買った綿について、他国への船積の独占権を主張するようになったのである。
 この動きに対する農民の反対が寛政九年(一七九七)十月いち早く川辺・武庫・豊島郡村々からあがっている。この訴状は綿と菜種の販売について述べており、菜種の販売に関する農民の訴えについてはすでにその内容を紹介した(五一七ページ参照)。そこで、ここでは綿の販売に関する項についてのみ述べるならばつぎのとおりである。
 これまで他国の商人も綿を買いにやってきたので、農民は彼らに綿を売ることもできた。ところが大阪綿市問屋と他国綿商人とが談合したのか、最近では他国商人が村に来なくなってしまった。その結果、仲買や池田の繰綿中問屋の手を経るにせよ、結局は大阪三所綿市問屋が一手に買い取って、それを独占的に他国へ売る形となり、自然と綿の販売が手狭となり難渋している。農民は綿を売って年貢上納にあてているので、従来どおり綿の手広売買ができるよう申し付けられたい、というものであった。
 

写真202 大阪綿市問屋の綿荷の積出し「綿圃要務」(大阪府立中之島図書館所蔵)


 
 菜種・油の流通に関して寛政以降農民に対する統制が強まったことはすでに述べたが(五一七ぺージ参照)、その動きと軌を一にして、寛政年間株仲間商人の独占権の拡大が農民の綿販売の自由を狭(せば)めるようになったことが具体的に指摘されているのである。この寛政九年の川辺・武庫・豊島郡村々の訴状が小浜村に残っていることは市域南部の村々がこの訴願に参加したことを推察させるが、ここに市域の農民たちも、ひとり在郷町池田の流通圈のなかでの問題にとどまらず、幕府の封建的流通機構に批判の目を向けるようになったことが知られる。そして三所綿市問屋の独占に反対し、他国商人の直船積を再開させることによって綿の手広売買をも回復しようとする農民の訴願は、やがて文政六年(一八二三)に至って摂・河一〇〇七ヵ村の、まさに国訴というにふさわしい結集にまで高揚する。この文政以降の国訴についてはまた章を改めて述べることとしたい(五六七・五八七ページ)。