市域南部の先進性

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 要するに一八世紀後期、市域南部の村々を含む摂津の平野部には、綿・菜種の生産が盛んになった。そしてこの商業的農業の展開に対応して、幕府は大阪の三所綿市問屋なり絞り油屋を中心とする株仲間機構を整備し、彼らに独占権を付与することによって、農民の生産した綿・菜種、とくに菜種を独占的に掌握する政策を進めた。
 こうして株仲間の独占権の強化が進むにつれて、綿・菜種は株仲間によって買いたたかれ、またその生産のために買い入れる肥料の値段がつりあげられるようになった。このような農業経営を圧迫する動向に対して、市域南部の村々を含む先進地帯の農民は、数十ヵ村・数百ヵ村結束して株仲間の独占に反対する訴願を展開し、やがては摂津・河内在々千数百ヵ村の結集にまで闘争を高揚させている。
 さしずめ他の地方なら多くの犠牲者をだす百姓一揆という手段に訴えなければ通らない要求内容を、請願という合法的な方法で達成しうるだけの力を先進地摂津の農民はもっていたのである。市域南部の平野部の村はこの成長した先進地帯の一角を構成していたわけである。