伊能忠敬の全国測量

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 一九世紀近世後期にはいっての最初のできごととして、伊能忠敬(ただたか)の市域測量のことをあげるべきであろう。
 下総国香取郡佐原村で酒造業・米穀商を営んでいた商人地主伊能家の養子忠敬は五〇歳で家督を譲った。そして江戸にでて幕府の天文方高橋作左衛門至時(よしとき)の門人となり、測量の技術を修得した。寛政十二年(一八〇〇)には幕府の許可を得て自費で奥州街道・蝦夷(えぞ)地東南海岸の試測をおこなったが、その測量の成果を認めた幕府は彼に補助を与えて全国の実測をおこなわせるようになる。
 はじめ東日本を忠敬が、西日本を間(はざま)重富が分担して測量することになっていたが、高橋至時が死に、そのあとをついだ高橋景保の補佐を間重富がつとめることになったことから、結局忠敬が西日本の測量をも引き請ける結果となった。