さて忠敬の測量は全国に及んだが、彼の西摂・北摂の測量は文化二年(一八〇五)・五年・六年・八年・十一年の五度に及んでいる。その測量経路は図28にしめすとおりである。
第一回目の文化二年には東海道筋から紀伊半島の海岸線、淀川・琵琶湖を測量したのち、一行は九月晦日(みそか)夜に伏見をたって淀川を舟で下鳥養(とりがい)村まで下った。翌十月一日にはそこから測量を開始して尼崎・西宮・兵庫へと中国街道を測進し、さらに山陽道を進んでこの年には岡山で越年している。明けて文化三年には岡山から西進して山陽・山陰の測量をおこなった。そして翌四年には、文化二年以来の測量結果をまとめることに日子を費やし、その間の測量地域の地図を作製して幕府に上呈している。
上呈を終えると、西摂・北摂の測量としては第二回目の測量の旅にでている。すなわち文化五年正月畿内から淡路・四国沿岸の測量をめざして江戸を出発した。そして二月二十九日大阪川崎村から測りはじめて神崎村に至った。そのあと三月一日には伊丹から大鹿村(伊丹市)へと測進し、西国街道との合流点に測留の印の杭を打って測量を終わり、昆陽村に止宿している。尼崎―西宮―兵庫の間はすでに文化二年に測量していたので、二日には昆陽をたった一行は測量をせずに西宮を経て一気に兵庫に至っている。このときは舞子浜から淡路にわたり淡路・四国の測量をおこなった。それを終えると、淡路―兵庫を経て十一月二十一日には大阪にもどり、そこから奈良・吉野等を測量して伊勢山田で越年している。翌六年には五年に測量した地域の地図を作製し上呈をおこなった。
そのあと同年八月忠敬は中山道を経てふたたび十一月に西国街道の測量にきている。すなわち西摂・北摂の第三回目の測量は文化六年十一月になされた。同月九日半町(箕面市)を出発した忠敬は西国街道を測進し、石橋(池田市)を通って下河原村(伊丹市)に入り、折から水の少ない猪名川を渡って大鹿村まで測進し、前年打った測留の印の杭に至っている。この日忠敬と別行動の一隊は半町から大鹿村に直行し、そこから西宮までを測進していたので、忠敬は大鹿村までの測量を終わると、あとは測量することなく西宮に至り止宿した。一行はそこから山陽道を測進して、九州小倉で越年した。