西摂・北摂の第四回目の測量は文化八年におこなわれ、いよいよ市域に測線が及んでいる。その前年には忠敬は九州小倉で新年を迎えたが、以来九州の測量に時日を費やし、大分で年を越した。そして文化八年には中国地方にもどり、そこから中部地方まで主として内陸部の諸道を測進し、五月江戸に帰着するが、その間に宝塚市域を通過して、測量しているのである。
すなわち三月四日忠敬は姫路をたち、青野原を経て滝野村(加東郡)・社村(加東郡)、丹波多紀郡にはいり、立杭村から摂津有馬郡にはいって九日三田に到着した。十日は雨のため三田に滞在、十一日に道場河原から湯山に至って本陣兵衛に止宿した。このときの一行は忠敬と青木勝治郎・永井甚左衛門・上田文助・平助の五人であったが、この忠敬の一隊と三月五日播磨加西郡坂本村で別れた坂部貞兵衛・下河辺政五郎・簗田(やなだ)栄蔵・箱田良助・長蔵の一隊は忠敬と別行動をとって国包(くにかね)・(加古川市)小野(小野市)・三木(三木市)を測進した。そして忠敬が湯山に着くよりも三日早く、八日に播磨淡河(おうご)村(神戸市)から摂津五社村(神戸市)までを測り、湯山に到着し本陣兵衛に止宿していた。この一隊は九日以後も湯山に泊り、五社―湯山の間を測り、また湯山町内および湯山と舟坂村との村境までを測った。
そして坂部らの一隊は十一日、すなわち忠敬の一隊が湯山に到着するその日の早朝に湯山を出発して、舟坂から生瀬まで太多田川沿いを測進した。生瀬で昼食をとったあと武庫川を渡った。当時武庫川には長さ五七間の橋がかかっていたが、それを渡っていよいよ市域川面村・安場村にはいっている。そこから街道を米谷から小浜へと測進し、その日は小浜の脇本陣木下吉左衛門宅に止宿している。
この坂部らの一隊は十二日には小浜の東の入口、街道と安倉への道の追分け地点から安倉村地内姥ヶ茶屋―鴻池―新田中野―大鹿村までを測り、また小浜へと引き返して、追分け地点からこんどは米谷地内を通って中山寺の門前に至った。そこから巡礼街道にはいって中筋村までを測り、その日は中山寺に止宿した。十一日夜坂部の一行とすれ違いに湯山にはいった忠敬の一行も、十二日湯山をたって測量することなく九つ(昼一二時)前、中山寺に到着した。三月五日以来別れて測進してきた両隊はようやく月余を経て中山寺で合流したわけである。
翌十三日には坂部・下河辺・箱田・上田・平助の先手は七つ半(午前五時)後中山寺を出発、多田院村(川西市)に直行し、多田院村から池田村までを測進する。一方、忠敬らの一行(青木・永井・簗田・長蔵)は六つ(午前六時半)後、中山寺村を出発し、前日坂部の一隊が測量を終わっていた中筋村から引き継いで、巡礼街道を山本村―平井村へと測進し、平井村から満願寺に折れ、同寺の境内で昼食をとったのち西多田村・矢問村(以上川西市)を経て多田院村に至っている。ここまでで忠敬の一隊はその日の測量を終わり、多田院に参詣したのち池田に至り、本町の大和屋太三郎方において先手と合流して止宿した。
こうして文化八年三月十一日から十三日にかけて市域を測量した忠敬の一行は西国街道から美濃・三河・信濃の諸道を測進し、甲信街道・甲州街道を測量して江戸に帰着している。市域の測量を含む文化六年以降の測量地域の地図の作製は同年に終わっている。
そのあと文化十一年に第五回目の、この地方の測進がおこなわれている。十年中国地方から佐用・龍野を経て姫路に入り同所で越年した忠敬は十一年正月姫路城下を出発、近畿の主要街道のうち未測量のところを測量し、飛驒街道から松本・善光寺へ、そして中山道を測進して江戸に帰着した。この測量のときに、二月十五日丹波亀山方向から丹波道を下った忠敬は能勢郡余野村(大阪府東能勢村)にはいり、そこから妙見道へと折れて妙見宮までを測り、もと来た道を下山して木代村(東能勢村)へと測進し、そのあと山崎・京都へ向かっていった。