こうして忠敬は寛政十二年(一八〇〇)以来文化十三年(一八一六)の伊豆七島の測量まで、全国にくまなく足跡を印したが、その間の測量の記録は「忠敬先生日記」「測量日記」(口絵10参照)にくわしく残されている。忠敬が直接測進した行程のことは「忠敬先生日記」にしるされており、ときに別行動をとって測進した隊の測量記録をも合わせて全行程の記録をしるしたものが「測量日記」である。
この両日記にはおもに街道測進のことが記録されているが、その作業だけで地図作製が可能であったのではない。否むしろそれは従的な作業で、ほかに緯度の測定、地点相互間の方位の測定がさらに重要な作業であったといえる。日記には毎夜「此夜晴天、測量」「此夜曇天、不測」といった記事がみえる。これは象限儀を用いて天体を観測し緯度を測る作業のことをしるしたものである。またたとえば文化二年忠敬は摩耶(まや)山(神戸市)にのぼり諸方の山や島の方位を測定し、楠公の碑(湊川神社)の前でも山々を測量している。これは半円方位盤を用いて諸方の山頂や島の方位を測定する作業である。これらの測定をおこなってはじめて地図の作製が可能であったわけであり、忠敬はみずからはこの天測と方位測定につとめ、街道の距離実測の方はほとんど弟子にまかせた。この天測と方位測定の正確さが忠敬の地図を非常に正確なものとしたのであった。
彼の病没(文政元年・一八一八)後の文政四年七月、友人・門弟の協力によって、忠敬の業績の総決算「大日本沿海輿地全図」(大・中・小図二二五葉)および、「大日本沿海実測録」一四巻が完成し、高橋景保の序文をつけて幕府に上呈された。