一橋徳川氏領の成立

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 市域の所領配置はほぼ寛文年間(一六六一~七二)に定着したが、それ以後の、江戸時代中期の変化といえば、わずかに延享三年(一七四六)に田安徳川氏領が市域に一ヵ村(一部)できた程度で、ほかにまったく変化はなかった。この市域に、江戸時代中期・後期を通じての最大の変化が文政期に訪れている。つぎにそのことについてふれたい。ひとつは文政六年(一八二三)三月二十四日忍(おし)藩阿部氏が陸奥国白河に転封になったとき、一三〇余年にわたって領有してきた市域南部の村々七ヵ村が公収され、まもなくそのうち五ヵ村ともとからの直領一ヵ村が一橋徳川氏に引き渡されたことである。もうひとつは旧阿部氏領二ヵ村と直領二ヵ村が文政十一年に尼崎藩領となったことである。
 

表69 一橋徳川氏略系図


 
 一橋徳川氏の成立についてはすでに述べたが(四三九ページ参照)、同家設立以来の同家の領知の推移をみてみると、1宗尹のとき、御三卿成立にさきだって、まず元文二年(一七三七)閏十一月俸米二万俵を与えられている。ついで同五年十一月十八日一橋に邸をもらい一橋徳川家を興した。それにともない、同年十二月十八日俸米一万俵を加えられて三万俵となっている。しかしその後田安徳川氏が摂津その他に一〇万石の封地(御賄料)を与えられたと同じ日、延享三年(一七四六)九月十五日に、武蔵・下野・下総・甲斐・和泉・播磨に一〇万石の封地を与えられている。
 

表70 文政10年(1827)一橋徳川氏の所領(御賄料)


 
 2治済の代、寛政六年(一七九四)九月二十四日に甲斐国の封地三万石余が公収され、その替え地として遠江国に三万石を与えられた。こうしてそのまま文政に至ったが、4斉礼の代、文政六年七月八日遠江国の封地一万石が公収され、代わりに摂津国川辺・豊島・島下郡において一万石が与えられた。このとき市域では中山寺村・平井村が同氏領となった。
 ついで文政十年二月十八日遠江・武蔵・下野国にあった三万石余が公収され、摂津・越後・備中国において三万石余が与えられた。市域についていえば安場・小浜・安倉(大部)・山本村が同氏領となった。いま文政六年以来の領村と十年以後の領村を合わせ表示すれば表58のとおりである。
こうして市域南部の小浜・長尾地区の村のほとんどが一橋徳川氏領となったのである。