近世最後の領地変更

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 つぎに文政年間の所領配置に関するもうひとつの変化は良元地区武庫川右岸の四ヵ村が尼崎藩松平氏(桜井松平・信定系)領となったことである。
 松平氏は宝永八年(正徳元年・一七一一)二月十一日青山氏に代わって尼崎に入部し定着した。武庫・菟原・八部の三郡内において四万八〇〇〇石を領知していた青山氏のあとをうけて四万石を領有したため、交替にさいして青山氏領のうち二六ヵ村が公収され、その残りの村々を引き継いだわけであるが、この青山氏から松平氏に替わるさい、市域の川面・見佐・伊孑志・蔵人村が尼崎藩領から離れたいきさつがある。以後市域には尼崎藩領は一ヵ村もなくなったのであった(二七六ページ参照)。
 その後明和六年(一七六九)に至って尼崎藩松平氏は酒造地帯として経済的に大きな発展をとげていた灘筋の村々、すなわち西宮・兵庫を含む武庫・菟原・八部三郡の二四ヵ村一万四〇〇〇石余を公収される。そしてその替え地として播磨国多可・宍粟・赤穂三郡内において七一ヵ村を与えられた。ところが文政十一年(一八二八)十月になって、こんどは逆に播磨の所領の一部が公収され摂津に所領がもどされる変更がおこなわれる。すなわち明和の新領のうち播磨国宍粟郡の二一ヵ村五八九〇石余が公収され、こんどはその替え地として川辺・武庫・有馬郡において一三ヵ村五五七四石余を与えられたのである。この新領のうちに市域の伊孑志・小林・蔵人・鹿塩村も含まれていた。
 このようにして市域南部に文政年間一橋徳川氏領と尼崎藩松平氏領が生まれた。これを最後として、以後は市域の村々の支配に変更はなく、そのまま明治に至ることとなる。