いまその流れをみるために、村方騒動の一例として下佐曽利村の場合をあげてみよう。同村では文化八年(一八一一)庄屋四郎兵衛と百姓治兵衛ら一八人との間に「聊(いささか)之行違之儀ニ付争論」が起きている。一八人の側は組頭三人・小前一五人であったが、彼らは九年三月十一日庄屋を相手取って訴訟を起こした。のちに述べるように、庄屋の側はおもだった山持八人を含む村落指導層であり、一八人は貧農層が主力であったと考えられる。
このときは、三月二十五日に和談が成立している。和談一札によって、争論の内容がどのようなものであったかが明らかになり、かつ訴人(一八人)の側が一方的に心得違いをわびる形でいったん終息する結果になったことがわかる。すなわち、①訴人側は村方諸勘定の割付方法に疑念をいだいていたが、この点の疑念は晴れたので、もはや庄屋方のこれまでの処置に申し分はない。②百姓個人個人の持山に生えている木の間伐や肥草・下草・落葉を取ることを希望していたが、この要求は取り下げる。③山が田畑の日陰になり耕作物に支障があるといったが、それは心得違いであった。④山手銀の割付けについては従来どおり村方に適正に割りかけてよい。⑤庄屋を訴えたのは心得違いであった。⑥免状や年貢皆済目録を小前のものにみせないと訴えたが、いつも読み聞かされており、訴えたのは心得違いであった。内容は以上のようなものであるから、一方的に訴人の側がわびて和談が成立したものといえる。
しかし村落指導層と小前貧農層の対立はこのときすっかり解決したわけではなかった。文政十二年(一八二九)にふたたび問題が持ち上がっている。同年九月十三日新兵衛宅に小前のもの三五人が集まった。あとで聞いたところでは、そのとき一同は、どんな事態になろうと変心することのないよう連判状をつくったということであった。九月十七日庄屋側のものがなにげなしに惣左衛門宅を訪ねたところ、惣左衛門と年寄市兵衛の忰(せがれ)文蔵とが長い連判状を広げていた。ふたりはあわててこれをしまいこんだが、遠くからみたところ連判状のようにみえ、年寄市兵衛・百姓代惣兵衛の署名印判もみえたという。そのあと、この年寄・百姓代を呼んで庄屋が尋ねたところ、銀子借用の連判状であると答えた。その後庄屋が年寄市兵衛に呼ばれて出向いたところ、そこに三五人がいて、連判状はこれであるといってみせたが、惣左衛門宅でみた連判状とは似ても似つかぬものであった。
十月九日小前三五人は年寄市兵衛宅に集まり協議して、庄屋に対してつぎの要求をだしている。①村方の山の管理や困窮している小前たちの世話万端をしてくれる年寄ひとりを新たに置きたい。その年寄のために庄屋給二石のうち五斗をさいてもらいたい。②松茸山のために山持ちのものから従来年々銀三二匁五分をだしてもらっていたが、今後は三四〇匁だしてもらいたい(従来個人持ち山の山年貢も個人がださず村中の家別割りで上納していたことに対する反発であろう)。
表71 文政13年(1830)下佐曽利村個人別山手米上納額
文化8年庄屋側の農民 | 山手米 | 庄屋を訴えた農民 | 山手米 | 所属不明の農民 | 山手米 |
---|---|---|---|---|---|
合 | 合 | 合 | |||
四郎兵衛 | 152.6 | 平右衛門 | 36.2 | 周蔵 | 23.3 |
吉左衛門 | 129.6 | 太兵衛 | 18.5 | 常蔵 | 16.5 |
宇平 | 117.1 | 治兵衛 | 14.2 | 新助 | 7 |
和兵衛 | 61.6 | 惣左衛門 | 8 | 長兵衛 | 5.5 |
利兵衛 | 44.9 | 喜左衛門 | 2 | 吟兵衛 | 3 |
嘉兵衛 | 25.3 | 彦兵衛 | 1 | 梅太郎 | 2 |
与市 | 24.3 | 惣右衛門 | .7 | 仙蔵 | 1.5 |
清兵衛 | 19.3 | 惣兵衛 | .5 | 吉右衛門 | .5 |
忠右衛門 | 18.5 | 市兵衛 | .3 | 源兵衛 | .5 |
佐兵衛 | 11 | 作兵衛 | .3 | ||
与右衛門 | 8 | 平左衛門 | .2 | ||
久右衛門 | 6.2 | 忠左衛門 | .1 | ||
新兵衛 | 5.3 | 村など共有 | 24.7 | ||
伊右衛門 | 3.2 | ||||
定次郎 | .1 | ||||
627.0 | 81.4 | 85.1 |
〔注〕庄屋側の農民は28人、庄屋を訴えた農民は18人であるが、全員の名はわからない。また文政13年当時と名が合致しないものもあって所属不明の農民がでている。庄屋を訴えた側には山を持たず、したがって山手米が0である農民もいる
庄屋は①については応諾したが、②については、山持ちと相談して七五匁まではだそうと答えた。三五人は承知せず、もし応じないなら山を自分たちで自由にするといってきかなかった。結局文政十三年に裁許が下って和談が成立した。いままで個人持ちの山の年貢(山手米)まで含めて村中家別割にしてきたのを改め、今後は、山手米は持ち山の反別に応じて割り当てることに決まった。
いま文政十三年裁許後の「山林御年貢小前帳」によって裁許後の山手米の個人別負担額を集計し、文化八年庄屋を訴える側についていたもの(一八人)と、庄屋側についたもの(二八人)を、判明するかぎりで分けてみると表71のとおりである。全体的にいって前者の主力は小前のもの、後者の主力は山持ち・村落指導層であることが明らかになる。しかも文化八年庄屋四郎兵衛を相手取ったものは一八人、文政十二年に庄屋吉左衛門を相手取ったものは三五人であるから、文化年間には庄屋についていた小前のものが、文政には庄屋を相手取る側に回ったことも考えられる。村方上層部と小前の対立という様相がいっそう明白になったといえよう。さらに争論の結果、小前の要求が通って山の反別に応じて山手米を負担するようになったことも小前の勢力の上昇をあらわすものとして注目され、世直しへの胎動が村方においてはじまっていたことを推察させる。
村内におけるこのような対立はやがてお蔭参り・お蔭おどりのなかで発展し、しだいに世直しの機運を醸成していく。