写真207 お蔭参りの図
歌川広重「伊勢参宮宮川の渡し」(神宮徴古館農業館所蔵)
文政十三年(天保元年・一八三〇)二月初め阿波からお蔭参りがはじまった。西宮地方に残る史料が西摂地方の様子を語ってくれる。三月二十六、七日ごろ兵庫―西宮―尼崎の中国街道を阿波の人々が伊勢に向かって通過しはじめ、二十八、九日ごろからは明石・兵庫あたりの人たちが通過した。西宮のものたちが参宮しはじめたのは閏三月二日ごろからである。そのころ西宮・尼崎にお札が降り、五・六日までに付近の村々でもお札降りがつづいた。小林村吉兵衛の家にも降ったといううわさであった。こうしてお蔭参りの人々が三月下旬から閏三月初めにかけて、中国街道をおびただしく通過するようになり、三月下旬には尼崎城下を日々五、六千人の人々が列をなしてつづいたという。
下街道(中国街道)に比べると、上街道すなわち生瀬―小浜の街道を通ってのお蔭参りはやや時日が遅れたようである。下街道を播磨三木・加古川・姫路・龍野あたりの人々が通りはじめた閏三月十日ごろ、上街道を播磨多可・加東郡のものがおいおい通過しはじめた。小浜から昆陽―伊丹―大阪へと向かい、あるいはまた街道を東へと通過していった。
これらお蔭参りの人々のために街道筋の村々はいろいろと施行(せぎょう)をおこなった。現在、伊孑志村が小浜駅にかかげた出施行の木札が残っている。おもてには「伊勢両宮御影参宮出施行 施主 伊寅(孑)志村 閏三月十九日」(第五章章頭写真参照)、うらに「文政十三年庚寅閏三月 小浜駅世話人中 伊寅志村世話人惣代庄屋市左衛門」としるした札である。この札からも閏三月中・下旬になって上街道を通っての参宮が多くなったことが推察される。
写真208 伊孑志村お蔭参り施行札(裏)(伊和志津神社所蔵)
このような人々の流れに刺激されて、平井村に残る史料では、平井村近辺の村々は四月ころ参宮したという。この時期にはお蔭参りもようやくとうげを越した。四・五月ごろ上街道では、参宮中病気にかかったものを郷里へ送り届けることが多くなり、このため村々はたいへん難儀したということである。
一般にそうであったが、西宮地方に残る史料でも、主人や親・夫に断わりもなく、また幼少のものを残したり、借家のものは家主に断わらずに参宮にでかけたという。いわゆる「抜参宮」であった。このため旅費の持合わせもなく、もっぱら沿道の施行に頼りながらの参宮となったが、領主と農民という封建的な収奪関係・階級関係からひとときなりと解放されることを求め、あるいは主人と従者、親と子、夫と妻といった間がらのなかにみられる封建的なきずなからの解放を求めて、しばしの他国への旅を楽しんだのであった。そこに封建制からの解放を求める民衆の意識をみることができる。