お蔭参りがようやく下火になった文政十三年五月ごろ河内の農村でお蔭おどりがはじまった。やがて大和にひろがり七月にはしばらく静まったが、八月からふたたび河内・大和の農村で盛んにおどられた。そしてしだいに上河内から山城へと移り、十一・十二月から翌天保二年の早春にかけては山崎あたりではやり、三・四月には池田付近で大流行し、ついで六月ごろまでに川辺・武庫両郡の農村にひろがっている。能勢郡は六月から七月にかけて、奥川辺の六瀬(猪名川町)の村々では八・九月ごろにおこなわれた。
このようなお蔭おどりの流行のなかで、市域でも乱舞がみられたようである。二年六月九日の夕方、小林村の若者数十人が鹿塩村徳兵衛方へきておどりを教えてくれるよう求めた。そして彼らは翌日までそこにいすわった。それが徒党がましいとみたのか鹿塩村から尼崎藩瓦林組大庄屋へ連絡がなされ、大庄屋から小林村庄屋に対して、さっそく徳兵衛方から引き取るようにと指示がなされたという。
また安倉村の枝郷鳥島村に残る天保二年(一八三一)六月の「お蔭おどり御守護寄進諸入用帳」をみると、この年お蔭おどりのために村人がだした寄付金やおどりのために買いととのえた品々、あるいはおどりのために他村から届けられた到来物の細目がくわしく記録されている。
それによれば、鳥島村のお蔭おどりのために、庄屋伊左衛門が金二五〇疋を寄付したのをはじめ、鳥島・姥(うば)(ばん)ケ茶屋・四軒茶屋(いずれも安倉村のうち)の農民六三人から、集計して銀九〇〇匁四分六厘に相当する金・銭・銀札がだされている。この寄付金によっておどりのための衣裳・道具その他の品々が買いととのえられたが、買い物のおもなものをあげると、つぎのとおりである。
九寸〆太鼓六丁 団扇(うちわ)太鼓六丁 大〆太鼓二丁 板張笠六〇 傘(かさ) 日の丸扇子一二五本 杓二〇本 高張ちょうちん一張 けんさきあんどん 三味線糸 さらし 手ぬぐい 竹 ろうそく まにあい紙 半紙 米 そうめん 魚 酒 油 おどり指導謝礼 飯料
このような品々買入れのために支出した金額は村内からの寄付金額をやや上回る九二三匁七分三厘となっている。太鼓の数や笠・扇子の数などからみても、おどりの人数が多数にのぼり、村じゅうこぞってのおどりとなったことが推察される。
なおこのおどりの花代として、他村から金品が届けられた。本村の安倉村の庄屋をはじめ口谷・荒牧(伊丹市)・池尻(伊丹市)・常吉・時友(以上尼崎市)・上大市(西宮市)といったところの人から銀に換算して六六匁八分七厘の金・銀札が届けられ、また平井・伊丹などの八人から生魚や酒の届けもあったことが知られる。
市域におけるおどりの様子を伝える史料はないが、平井村の記録には天保二年春「御影踊ヲ初メ近国大騒キ」となったとある。自村でおどるだけでなく他村にでかけて富農・富商・村方役人の家にあがりこんでおどり、酒食・御祝儀をねだった。さきに述べたように農村内の階層対立がしだいに明らかになっていた時代だけに、そこには村落支配者層に対する対抗の意識が秘められていた。また村によっては村じゅうが申し合わせて麦や豆・菜種の取り入れもせず、田植・草取りもほうりっぱなしにしておどった。そこには、神威をかりて封建的収奪から解放されようとする願望がこめられていたといえる。それらの行動はけっして積極的な封建社会への挑戦ではなかったけれども、まさに封建社会をのりこえようとする農民の世直しの願いをそこに認めることができる。