この風潮は天保八年(一八三七)に世直し一揆にまで高まるが、それには天保初年以来の慢性的飢饉、そして七・八年の大飢饉が大きく影響を与えている。
天保四年には畿内の農作は半作の状態となった。米谷村の記録によれば、同村では虫入りがひどく、六月中旬に一度油による虫追いをしたが退治しきれず、七月十日ごろから再度の虫退治をおこなった。ところがその後七月中旬の風雨で綿桃(球形の綿の実)が結実しないうちに吹き落されてしまった。そのうえ八月上旬から大雨が降りつづき、そのため綿は実らない、稲株も太らないままになってしまった。
そこで米谷村では九月二十一日に凶作の状況を訴え、定免年季中ではあるが、特例的に作柄の検見をしていただき、何分のお救い(年貢減免)を願いたい。また九月二十五日までに上納することになっている一番年貢三三石の上納をしばらく延期してもらいたい。このように領主(大和国小泉藩片桐氏)に願いでている。なお隣村川面村でも十月に拝借米五〇石の貸し下げを領主(丹波国篠山藩青山氏)に願いでていることが知られ、天保四年の凶作の様子を察することができるであろう。
この天保四年の凶作のためこの年から翌五年にかけて米価が高騰したが、天保七年は大凶作で、さらにすさまじい高騰をしめす。この年の大凶作についてはつぎのような平井村の史料がある。
三月上旬ヨリ雨天続キ六月下旬迄三ヶ日ノ天気
マレナリ、淀河辺六月下旬迄度々田植致ス、然
れ共大庭(抵)不残水損ス、季夏頃畑ケ作り物ささぎ
等其儘木ニテハヘルナリ
四ヵ月の間三日と晴天がないという雨天・低温つづきで、稲・綿・諸作とも不作となった。このため穀物の値段は秋から翌年夏にかけて大きく高騰した。平井村の記録では、九月下旬には米は一石が百四、五十匁から一七〇匁、麦が一一〇匁余、綿が一本三二〇匁と、すでに高騰をしめしているが、なにしろ秋の収穫がほとんどなかったため、十二月には米が一七〇匁、麦が一三〇匁、大豆が一〇〇匁余と上がった。さらに翌天保八年六月には米二八〇匁、麦一七〇匁、小麦一五〇匁、空豆一五〇匁と大高騰してしまった。