極限にきた窮乏

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 このような穀価の高騰で、村々の小前のものの窮乏ははなはだしかった。このため領主や村々がそれぞれに難渋人の救済をおこなった。下佐曽利では七年十一月に、一年間無利息貸与という条件で、村内の上層農民卯兵衛から干粕二〇石を借りうけ、それを難渋している農民に飯料として貸し付けた。ついで八年二月には村の「重立ち候もの共」七人が米二石九斗二升五合を提供し、それを四軒(一五人)に飯米の足しにと施行している。一人一日一合、二月十五日から八月晦日までの一九五日分が支給されたのである(この村の上層農民、重だったものは持高一〇石程度の中農層であった)。下佐曽利村は直領であったが、六月には代官所から銀一二三匁七分四厘を拝借し、そのうち八三匁五分三厘を、さきに施行の対象となった四軒(一七人)に与えている。残額は村が拝借銀を五ヵ年賦で返納していくためにとっておくことにしている。またこの月村内では卯兵衛が一四両、四郎兵衛が六両を難渋人に貸し渡してもいる。一〇年賦・年五朱(五%)の利息という条件であった。
 以上は直領下佐曽利村の場合であるが、市域南部に多い一橋徳川氏領村々では、相応に生活できる農民が金銀をだし、それを難渋人に施行するよう村内での助け合いを領主から命じられ、それにしたがって施行がおこなわれた。また八年四月には領主から窮民御救金の割渡しをうけた。平井村に下付された御救金は一貫五八七匁八分六厘であったが、この銀で米七石三斗八升五合を求め難渋人四〇軒と二ヵ寺に一軒八升ないし二斗を施行している。
 さて、さしもの大飢饉も裏作の収穫期にはおさまりはじめ、八年六月中旬が穀価高騰の極点で、下旬からは下落のきざしがみえた。八月上旬にまた一時的に上がったが、秋の収穫とともに下落していった。しかしその間にも直領境野村では六月・七月に難渋人の夫食にあてるための拝借銀の貸与や御手当金の支給が代官所からなされている。難渋人一二軒(五三人)に四三九匁二分八厘、また一七人に二五匁ずつの拝借金が貸し渡され、三五人に一二匁三分七厘ずつの手当金が支給されたのである。農民の窮乏はきびしくつづいたことがわかる。